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自然

世界農業遺産

国東半島 自然

クヌギ林とため池がつなぐ国東半島・宇佐の農林水産循環

 国東半島にはため池が多い。中央の両子山(721メートル)から海岸へ。中には、山の斜面に沿ってため池が縦に並んでいるところもある。それぞれを水路でつなぎ、下流のため池の水が不足すると、上流から水を落とす。

 農業には水が欠かせない。傘を伏せたような半島の地形は険しく、川は急こう配。海岸までの距離は短く、雨水は流域を十分に潤す間もなく海に流れ込む。田畑に使える水は、ほかの地域に比べて十分とは言えない。多雨、少雨の年があるにしても、雨を貯水するため池がなくては、稲作はおぼつかない。ため池は、自然に向き合い、農業で暮らしてきた人々の知恵と努力の結晶だ。

 ため池の周りにはクヌギ林が広がる。本州以南の里山でよく見かける落葉高木で、たきぎや炭として使われてきた。つい半世紀前までは暮らしに欠かせないエネルギー源だった。

 クヌギは伐採し、シイタケを栽培する榾木に使う。成長は早く、伐採後、15年もすれば元のように大きくなる。伐採と育林を繰り返し、クヌギを絶やさないように利用する。自然のリズムに合わせたシイタケ栽培である。

 ため池とクヌギ林、それを利用した農林業が「世界農業遺産」に結びついた。「クヌギ林とため池がつなぐ国東半島・宇佐の農林水産循環」である。対象は国東半島と宇佐市一帯の4市1町1村・1323.75平方キロ。古くから、宇佐神宮と六郷満山の仏教文化を支えてきた地域だ。

 世界農業遺産は「国連食糧農業機関」が伝統的な農業と生物が豊かな環境、農村の文化や景観を維持・保全している地域を選定しているものだ。国内では「トキと共生する佐渡の里山」「阿蘇の草原の維持と持続的農業」などがある。

 国東半島・宇佐の世界農業遺産は「循環」が大きな意味を持っている。循環にはクヌギ林、つまり里山が深くかかわっている。クヌギの林はしっかりと根を張り、土壌の保水力を高め、ため池の水へとつながる。やがては田畑を潤し、海へと流れ、土壌に含まれる大地の栄養分を含んだ水が海を豊かにする。

 大きく眺めれば、クヌギ林とため池、それを利用する稲作やシイタケ栽培を通して、鎖がつながるように緑と水と土がつながっている。人々がつくりあげてきた持続する農林水産業の姿である。

ジオパーク

国東半島 景観 自然

太古からの「大地の遺産」

 「大地の公園」はジオパークを表現するときによく使われる。ジオパークは「geology(地質学)」と「park(公園)」からつくられた造語。地球活動にかかわる自然遺産に触れ、それを現代に生かすのがねらいだ。

 2004(平成16)年、ユネスコの支援で「世界ジオパークネットワーク」が世界中の自然景観を対象に認定を始めた。「おおいた豊後大野」「おおいた姫島」のジオパークはその国内版。2013(平成25)年、「日本ジオパーク委員会」の認定を受けた。
 豊後大野のルーツは太古にさかのぼる。約9万年前、阿蘇山の巨大噴火で、大火砕流が噴出した。700度にも達する高温の火砕流が九州の北半分を覆い、「無」の状態になったと考えられている。
 火砕流は冷えて固まり、溶結凝灰岩の大地をつくった。それが水流に削られ、壁のように崩れ落ちたのが「原尻の滝」や「沈堕の滝」。固まるときに岩の体積が収縮し、規則的にひび割れたのが「滞迫峡」や「杓子岩」の柱状節理の断崖。いずれも豊後大野ジオパークを代表する景観である。
 姫島は約20万年前からの火山活動で生まれた。島内には7つの火山の火口跡と溶岩ドームがある。大海海岸では、大地の変動の跡がダイナミックに残る地層褶曲が見える。観音崎には、先史時代に石器の原料となった黒曜石の断崖が残る。火山性の鉱物に富み、地層・地形研究の宝庫といわれるのもうなずける。
 ジオパークを巡ってみよう。豊後大野は約603平方キロメートルの広大な地域に、地形や景観を眺めるジオサイトが21カ所。アーチ式石橋、溶結凝灰岩からつくりだした磨崖仏のジオサイトもある。それを巡ると、大地の鼓動を聞き、石の文化に触れる観光コースにもなる。
 姫島のジオサイトには、日本列島を縦断する渡りのチョウ・アサギマダラの休息地もある。黒曜石の断崖で太古の歴史に触れ、アサギマダラの休息地で自然を楽しむ。ジオパークとツーリズムを組み合わせたジオツアーだ。「大地の遺産」を観光につなぐ。ジオパークから新たな地域づくりが始まった。

和間海岸の干潟

県北 自然

宇佐神宮と深い縁

 周防灘に面する県北の中津市から宇佐市、豊後高田市にかけての海岸線は遠浅の砂浜で、県南・豊後水道のリアス式海岸とはまったく対照的。その遠浅海岸の代表的なものの一つが和間海岸で、広い干潟が見られる。

 和間海岸は宇佐市の東部で海に入る寄藻川河口の西、長洲町の東に当たり、昔から「和間ノ浜」として知られる。『宗像神社古縁起』には神功皇后が朝鮮出兵の際、宇佐の「和摩浜」で48隻の船を造ったと記されているそうだし、『八幡本紀』には和間の浜は宇佐郡松崎の海辺で、放生会を執行するとある。

 神功といい放生会といい、古くから宇佐神宮と関係の深い海岸である。その伝統の放生会は10月に浮殿橋の横にある和間神社で行われ、大昔に宇佐神宮が鎮圧した隼人の霊を慰める行事とされている。

 海岸線には防風のための松林が連なり、日本的な海岸風景である「白砂青松」そのもの。現在では和間海浜公園が整備されて、干潟での潮干狩りなどが楽しめる。海辺で遊べば、松の緑が心地よい憩いの木陰を提供してくれるだろう。

 ところで、海岸の背後は豊かな田園地帯。ここに久兵衛新田、岩保新田、あるいはさらに奥に北と南の鶴田新田などの地名が見られる。ほかにも近くには駅館川の西に神子山、郡中、高砂、順風、乙女、あるいは浜高家などの新田の付く地名が並んでいる。

 これらは近世後期に遠浅海岸を堤防で締め切って干拓地を造成し、新しく開発した新田地帯である。開発の音頭を取ったのは西国筋郡代(日田代官)の塩谷大四郎で、宇佐郡や農民、または町人が請け負って開いたもの。久兵衛は広瀬淡窓の弟で、いわゆる日田金を動かした町人である。

 つまり、和間の海岸は農民たちの粒々辛苦の新田造成の後、さらに海に延びた砂浜なのである。

オオサンショウウオと生息地

県北 自然

太古の姿で今も

 19世紀に入ったころのヨーロッパでは、正体不明の奇妙な化石が学者たちを悩ませていた。なかには「ノアの方舟」の際の大洪水で死んだ赤ん坊の頭骨だととなえる者も出る始末。
 謎が解けたのは、日本に西洋医学を紹介したシーボルトが帰国にあたり、日本のオオサンショウウオを持ち帰ったことから。比較研究の結果、化石はヨーロッパ産のサンショウウオだと分かった。
 オオサンショウウオの先祖は、約3億年前に水中から出て陸上での生活を始めた最初の脊椎動物の仲間だと言われる。その後の地球の激しい変化を生き抜き、今と同じような姿になったのは約7000万年前と考えられる。
 これが「生きている化石」と呼ばれるゆえんであり、太古の生き方と性質を現在も残す。陸上生活に入っても、水から離れることは不可能。体を支えられないほどの足、大きなずうたいに似合わぬ小さな目などがそれ。
 山奥の薄暗い清流に暮らし、水中の小動物を捕食する。8月末から9月初めが繁殖期。環境の変化には極めて弱い。その彼らの生息地が大分県内にあり、日本での南限地。国の特別天然記念物に指定される。宇佐市院内町の余川だ。 駅館川から石造アーチ橋群で知られた恵良川をさかのぼると、飯塚あたりで支流の余川が合流する。今度は余川をたどると「いんない温泉」があり、左岸から岡川が入る。岡川の上流が、オオサンショウウオ生息地の中心部である。
 余川の本流域と岡川流域を余谷とも呼ぶ。滝貞や小平あたりでは棚田が広く見られ、日本の「棚田百選」の一つ。一帯には九つの集落があり、地域づくりも活発。全戸が参加して2000(平成12)年には「余谷21世紀委員会」が発足、農産物の生産・加工などの研究に精を出し、イベントも開催、大分大学とも交流する。当然、委員会が生息地の保護にも当たっている。

鷹鳥屋神社の森

県南 神社・仏閣 自然

典型的な原風景

 佐伯市宇目は山の中。ご存じ「宇目の唄げんか」は「山が高うち在所が見えん…」と、子守娘の悲哀を歌う。高いと言っても高山というわけではないが、山々はかなり険しく懐が深い。そうした山の一つに鷹鳥屋(たかとりや、または、たかとや)山(639メートル)がある。山頂部に神社が鎮座し、一帯は県指定天然記念物の自然林で覆われる。

 神社近くまで車道が通ずる。大きな杉の並木となっている参道をたどると、こま犬の代わりに鷹が迎えてくれる。そして山頂へ。境内林から国有林にかけ、一部にモミの林があるものの、大半はウラジロガシを含むアカガシ林で、亜高木層、低木層にイスノキ、ヤブツバキ、サカキ、ユズリハ、ハイノキなどが生い茂り、常緑樹が優先する。サザンカも自生する。ヤブコウジ、ベニシダなども見かけられよう。

 常緑広葉樹林は西南日本の典型的な森。いわば日本列島の原風景である。民族の祖先たちは、このような森の中で長い年月を経てきた。里の鎮守の森はその名残だろうが、ここにはいまだ手付かずの森があり、「時の重み」を身をもって受け止め、太古に戻ったと錯覚するし、人によっては神気さえ感じられよう。

 神社の歴史も古い。伝説によると、昔、越中立山にいた矢野氏が紀州熊野に移った際、筑紫(九州)へ行けとの神告を受け、1275(建治元)年、府内で大友氏に仕えた。そこで今度は豊後の南を守れとの命をもらって宇目に来た時、権現の使いとおぼしき2羽の白いタカに導かれ、この山にたどり着いたとか。今の宮司は県南落語組合や旧宇目町、佐伯市観光大使を務めたことで知られる矢野大和氏である。

 宇目を代表する祭の一つに椿原祭典がある。鷹鳥屋神社が中心となり、みこしが山を発して中津留の遥拝所まで下り、小野市地区の郷社27社を集めての盛大な祭りが開催される。

本匠のゲンジボタル

県南 自然

広い範囲に出現

 番匠川は大分県を代表するきれいな川として知られる。佐伯市本匠は、その上流域にあたり、番匠川のおおもとであるとして旧村名に採用された地名。川は三国峠や佩楯山などの連嶺に発し、因尾茶で知られた地域に流れ込む。この一帯がホタルの名所で、鹿渕辺りを中心に「ホタルの里」となり、散策路などもつくられている。

 広範囲にホタルが出現することで知られ、ホタルの乱舞で川面から岸辺まで光が波打つようで、光の海を見ているようだとも形容されている。これほど広い範囲に数多くのホタルが姿を現すのは九州でもここだけだとも言うが、ここにもまた、住民のたゆみない努力があった。 ところで、番匠川をさらに下って行くと小半鍾乳洞や日本一の大水車の架かる公園があり観光客が絶えない。そこでお気付きのことと思うが、先にホタルの名所として紹介した白山川にも稲積水中鍾乳洞があった。

 鍾乳洞は石灰岩地帯にできるもの。つまり、白山川も番匠川も石灰岩地域を流れていることになる。大分県の南部を斜めに走る石灰岩の山並みの北と南にあるのがこの両河川である。石灰岩は濁りの少ない清流を生んでいるわけだ。

 しかし、それだけではない。ホタルは川の中で幼虫として成長している間、カワニナを食物としている。そのニナは殻を作るのに石灰分が欠かせない。だから石灰岩地帯の川にはニナが多く、それがホタルにとって好条件となる。ホタルを養殖する場合、ニナを育てるのにコンクリートブロックなどを水に入れるが、両河川では自然がそれを用意しているわけだ。

 なお、日本のホタルと言えば本州以南のゲンジボタルが代表で体長15ミリほどだが、大分県にはその半分ほどのヘイケボタルやヒメボタルもいる。

米水津間越海岸のハマユウ群落

県南 景観 自然

潮風に揺れる貴婦人

 ハマユウ(浜木綿)は「黒潮の楽園」の代表的な植物。関東以南の太平洋沿岸、つまり黒潮洗う暖かい南海型気候区の砂浜に自生する。大分県内では佐伯市の蒲江、米水津に多く、夏の花時は潮風に揺れる白い貴婦人といった風情である。

 ヒガンバナ科の多年草で、花の様子が木綿に似ていることから名前がある。木綿はコウゾなどの樹皮を細かく裂いて作った繊維で、祭りの際などの幣に垂らす。由布岳が古く木綿山と書かれたのも、由布院盆地が木綿の産地だったからと言う。別名のハマオモト(浜万年青)は、肉厚の青い葉がオモトに似ていることから。

 水はけの良い日当たりに恵まれた海浜を好み、太い茎のような円筒状の幹の周りに大きな葉を広げる。開花期は夏。葉の真ん中から出た茎の上に多数の白い花を散形に開く。まさにヒガンバナ科である。日没ごろから強い香りを放って蛾を呼び寄せる。

 蒲江では江武戸公園、高山海岸、波当津海岸、屋形島、米水津では間越海岸などに多く、20万株を超えるというが、現在も地域づくり運動などで植栽されており、数はさらに増えそうだ。

 積極的な植え付けが始まったのは、1971(昭和46)年に蒲江高校の生徒たちによる「ハマユウ運動」がきっかけらしい。それが地区全体に広がり、地域おこしに連動した花いっぱい運動として開花した。今では中学生まで参加していると聞く。

 ハマユウだけではない。海の町にふさわしい海浜植物の増殖・保護活動を繰り広げ、地域づくり総務大臣賞も受けた。砂浜の環境に育つだけにハマユウの根は深く入るが、地域づくりもしっかり根付く。

 地区内では、何かにつけてハマユウの名が目立つ。花言葉は「どこか遠くに」。行って見たいな。

くじゅう連山のミヤマキリシマ

豊肥 景観 自然

咲き誇るピンク

 「ミヤマキリシマ咲き誇り、山紅に…」と歌われるように、くじゅう連山に花の絨毯が敷きつめられる。アケボノツツジ、シャクナゲと、花の開花期を追って開かれた大分の山々も、この花を迎えてのくじゅう山開きで、梅雨をはさんで本格的な夏山となる。
 漢字で書けば深山霧島。深山は高山性植物であることを指し、霧島はもちろん霧島山。だが、霧島に限らず阿蘇山、雲仙岳にも群落を持ち、今ではくじゅうが全国的に有名となった。
 ツツジの一種で、標高およそ1000メートル以上に自生し、背丈もせいぜい1メートルぐらい。地を這うように群落を作る。枝先に2、3個ずつの薄紅色の花をつけるが、色は赤や紫がかったものから、時には白花まで見かけるように、ところによって微妙に違う。
 くじゅう連山では最高峰の中岳から久住山、三俣山、星生山、さらに牧の戸峠など、どこででも見られると言ってよいが、特に群落の多いのが大船山と平治岳。大船山は江戸時代の『豊後国志』にツツジが名物として早くも紹介されている。近年はお隣の平治岳の群落が脚光を浴び、登山者が殺到する。県内ではほかに鶴見岳や万年山にも多いが、日出町の経塚山は600メートル級なのに小さな群落を見せて5月中旬に開花する。
 キリシマの群落は火山活動によって生態系が乱された山肌に多い。つまり雑木などの少ないところが生育に適しているわけで、火山活動が終わって長い年月を経て樹林が広がると姿を消すことになろう。ともすれば群落を覆うように育つヤシャブシなどを切り、害虫である尺取虫の一種などを駆除する必要もある。野焼きでくじゅうの美しい草原が守られるように、名花ミヤマキリシマにも人の力添えがいる。

祖母・傾山系ブナ林

豊肥 自然

神秘的な生命体

 祖母・傾山系は深い樹林をまとい、岩峰・岩壁を連ねる極めて男性的な山容である。作家・深田久弥は九重山とともに「日本百名山」に選んだが、九重の女性的な優しさに比べ、彼はその対照的な姿をとらえて「緩い稜線を左右に引いた品のいい金字塔」として紹介している。

 山系は祖母山(1757メートル)から南、西へと大分・宮崎県境に長い尾根を連ね、東の端に傾山(1605メートル)を立てている。宮崎側は緩やかな斜面だが、大分側は急峻で、奥岳川の源流が鋭く切れ込み、岩峰・岩壁の下に原生林(自然林)を広げる。

 原生林は西南日本の典型的な森の姿を示す垂直分布で、暖帯林から温帯林への移行をはっきり見せてくれる。大まかに言うと、標高1000〜1200メートル辺りを境に、下部がツガ林、上部がブナ林に分かれている。冬場に訪れると、常緑のツガと落葉のブナの境が線となって山腹にくっきりと現れる。

 祖母山から南へ障子岳、古祖母山・尾平越へと連なる稜線と、東に大障子岩、前障子と延びる尾根に囲まれた馬てい形の内側を「内院」と呼んでいるが、ここが原生林と渓谷美と岩峰・岩壁の粋を集約したところ。一部に遊歩道もあるので、山系の一部は一般の人でも味わえよう。
 歩いていると、山と原生林が一体となって巨大な「生命体」を構成しているのではないかと感じられる時さえある。それは神秘な体験でもあろうか。
 祖母山はかつて添山・添利山とも書いて、ソホリノヤマと呼ばれたことがある。ソホリ、あるいはソウリは神聖な場所を示す語で、韓国の首都ソウルにも通ずる。昔の人たちは、祖母山を天に通ずるはしご、神のいる山として仰いでいたわけ。さらに明治の末に正確な地形図ができる前まで、それは九州一の高い山と信じられていたのである。

白山川とゲンジボタル

豊肥 自然

清流に光の乱舞

 「山紫水明」は日本の風景の素晴らしさを端的に表す言葉であり、大分の山河の多くはその典型的な美しさを今に伝えている。それはまた、夏の風物詩であるホタルの乱舞する川が多いということでもある。中でも代表的な川とホタル名所は、ともに「おおいた遺産」に選ばれた白山川と本匠だろう。
 白山川は豊後大野市三重町を流れる大野川支流の中津無礼川中流部辺り。稲積水中鍾乳洞をはじめ、ほげ岩などきれいな風景が川とその流域に見られ、「日本の名水百選」の一つである。百選は多くが湧水だが、川そのものが選ばれているのは珍しい。それだけ川が清いということだ。
 川は祖母・傾山群の傾山東北山腹に源流を持ち、大白谷を経て中津留地区に入る。この付近が白山川と呼ばれるところで、ふちとなったり瀬を見せたりして稲積山が水面に映る。
 川は古くから清流として知られていたが、それを「名水」にまで育て上げ、ホタル名所としたのは住民たちの努力だった。
 かつて全国的に農薬の大量使用などによって川が汚染され、昆虫や水生生物が危機にひんした時期があった。白山川にも、その心配が出てきた。
 そこで立ち上がったのが地域の300余戸の人たち。1974(昭和49)年に「白山川を守る会」を結成、以来、今日まで「川を守りホタルを救え」の活動を続けてきた。この間、第1回「日本水大賞」の奨励賞を受けたほか、何度も表彰を受けた。
 本匠については別に紹介するが、ほかに大分県内のホタル名所として、県ホタル連絡協議会が選んだ河川がある。ホタルが育つ環境を守り、地域の振興に役立てようとの狙いで、大分市の七瀬川、別府市の朝見川、中津市の山国川、宇佐市の伊呂波川、日田市の小野川、竹田市の稲葉川など20余カ所がある。

久住高原

豊肥 自然

四季の表情鮮やか

 ススキの穂波が銀色に光り始めると、高原の秋は一気に進み、山や谷が紅葉すると、やがて冬が急ぎ足でやって来る。春の野焼きの後、すぐに緑がもえて夏が訪れるように、久住高原の四季の移り変わりは実に鮮やかだ。
 「草深野ここにあふげば国の秀や久住は高し雲を生みつつ」。高原のど真ん中、北原白秋の歌碑が立つ。すぐ下には徳富蘇峰の詩碑もある。
 長湯温泉から大草原を経て瀬の本に至るまで、高原にはたくさんの文学碑がある。万葉集の昔から頼山陽の「九重山」を経て現代まで、詩文や絵画で山と高原をたたえた人は枚挙にいとまがない。
 「大いなる師に近づくと似たるかな久住の山に引かるる心」と与謝野鉄幹は山を仰ぎ、晶子は草原を眺めて「久住山阿蘇のさかひをする谷の外に襞さへ無き裾野かな」とうたった。
 晶子の歌のように、高原はまさに広い。ある時、ネパールのシェルパを案内した。彼は高原の一角で車から降ろしてくれと言い、しばし草原を眺めていたが、やがて「氷雪と岩のヒマラヤは白き神々の座だが、この緑の広がりも世界の宝だ」と語り、目に涙した。
 標高600メートルから1000メートルにかけ、ゆるやかに連なる草波は九州最大で、日本でも屈指の大高原である。野口雨情がうたうように「山は雲つく裾野はひろい何処が久住のはてだやら」である。その果てに阿蘇が煙を上げ、祖母・傾山群が波打つ。
 もちろん、高原は訪れる人だけのものではない。そこは先史時代から今日まで、人々の生活の場である。草を刈り、牛馬を育て、高冷地野菜をつくり、時には鳥獣を狩り、人は何千年もの営みを続けてきた。山をあがめ、草原に溶け込み、自然とともに生きてきた。
 しかし、その環境は優しくも厳しい。夏は涼しくても、冬は寒気が渦巻く。人々はそれに耐え、めぐり来る季節を待つ。

坊ガツル・タデ原湿原

県西 自然

長年苦労して保全

 「九州の屋根」と呼ばれる「くじゅう山群」は、自然が持つ多様な顔を見せてくれる。中でも卓越するのが高原の景観。おそらく全国でも屈指の草原美と言ってよかろう。そしてその中に、ラムサール条約に登録された坊ガツル・タデ原湿原がひっそりと眠っている。
 坊ガツルは山群の中部と東部の間にあり、四面を山に囲まれた標高1200―1300メートルの草原盆地。山群の登山・信仰の中心の一つである法華院温泉があり、九州の登山人たちは「心のふるさと」、さらには「聖域・霊地」とまでたたえる。
 「坊」は法華院の坊があったこと、「ツル」は大分県に多い地名で水の流れを意味する。その水流は西の中岳と東の大船山から出て盆地中央で合流、北の三俣山と平治岳の間を割って鳴子川となり飯田高原に流れ下る。湿原は合流点付近から南の立中山の麓にかけて広がる。
 タデ原は飯田高原から仰ぐ三俣山の麓。長者原登山口から坊ガツルに越す雨ケ池越への道筋でもある。背景に三俣山や星生山、さらに硫黄山の噴気を望むビュー・ポイントだ。流れるのは硫黄分を帯びた白水川で、やがて鳴子川と一緒になる。湿原には立派な木道がめぐらされ、背後の森林の中へと自然観察遊歩道が整備されている。坊ガツルも木道で保護されており、共に湿原への立ち入りは禁止。
 植生は多彩だが、訪れる人を楽しませるのはやはり花。シラヒゲソウ、トモエソウ、サワギキョウなどなど、春から晩秋ま で絶えることはほとんどない。特に8月末から9月が見事で、図鑑と首っ引きで調べよう。
 ラムサール条約は、国際的に重要な湿地に生きる動植物の保全を目的としているが、この湿原を守ってきたのは、野焼きをはじめ、古くからの人々の苦労の歴史であることを忘れまい。

中津干潟

県北 自然

生物の揺りかご

 周防灘の大分・福岡両県の沿岸、つまり豊前海の関門海峡から国東半島の付け根にかけて、断続的に広大な干潟がある。有明海と並んで日本屈指の広さを誇り、そのほぼ中央部にあるのが中津干潟である。

 中津港を挟み10キロの海岸線、広さは約1350ヘクタール。背後にはその名も大新田の干拓地が防風林で守られ、その松林の続く沖合には干潮時に約2キロ、場所によっては3キロもの干潟が姿を現す。浜辺から眺めると、干潟の先端と水平線が重なり合うようにさえ感じられる。

 砂地もあれば泥地もあり、その混じり合った砂泥、さらに小石の広がり、塩性の湿地。楽に歩けるところもあれば、足を泥に取られる場所もある。と言うことは、多様な環境が用意されているわけ。それに伴って生物相も多彩。NPO法人「水辺に遊ぶ会」(中津市)の調べでは約500種の生き物がおり、その4割が絶滅危惧種とか。

 カブトガニやアオギス、ナメクジウオ、各種の貝類。ズグロカモメやオオソリハシシギなどの鳥も飛来する。それは好漁場を生みだし、先史時代から人々の生活を支えてきた。

 干潟は「海の森」とも呼ばれ、「遊ぶ会」は里山に対して里海の言葉をつくり、環境省に「里海創生支援事業」に取り組ませ、全国4カ所のうちの一つとして指定された。

 会の基本活動は子供と干潟に遊ぶことに始まり、市民に海の豊かさや楽しさを知ってもらうことを狙いにした。清掃や観察などの活動はボランティアで行われてきたが、やがて漁民も乗り出し、伝統の笹干見漁が復活した。最近では企業や行政も加わって、自然との共生の運動が幅広く着実に展開されている。

守江湾の干潟とカブトガニ

杵築・日出 自然

生きた化石を守る

 国東半島の付け根、杵築市街地の前面に守江湾がある。海に面して立つ杵築城の南には八坂川、北には高山川があって、両川が運び込む土砂により広い干潟が生まれた。干潮時には東西およそ1.5キロ、南北2キロに及び、全国的にも珍しいカブトガニの生息地となっている。
 カブトガニは約2億年前の中生代で恐竜の歩き回っていたジュラ紀から現在まで、その姿をほとんど変えずに生き続けている生き物。マダガスカルのシーラカンスとともに、生きている化石とまで言われている。
 もともと瀬戸内海から九州北部の沿岸部の干潟に点々と生息地があったというが、高度経済成長期に埋め立てが進み、工業地帯となって干潟は大きく失われた。また、山や森から栄養分を運んで海の幸をはぐくんでいた川も、住宅地の形成などで性質を変えた。こうしてカブトガニは各地から追い出された。
 守江干潟は彼らにとってすみやすい環境が残されているというわけ。それにはまた、沿岸地域の人々の努力があった。日本有数の繁殖地を守ろうと、住民は潮干狩りを楽しむだけでなく海の清掃活動を展開すれば、漁民は網にかかったカブトガニをその場でリリースし、さらには湾を取り巻く山々や台地斜面の植林にまで乗り出した。
 カブトガニは成長するまで8年から10年かかる。干潟を守る運動も、息長く続けなくてはならない。さらに、彼らだけでなく、この干潟には多くの生物がいる。魚ではアオギスが知られているし、鳥類の渡りでは経由地、あるいは越冬地となっており、ダイゼン、メダイチドリ、ハマシギなどが観察されているほか、レッドデータブックに入っているコシャクシギ、アカアシシギ、ホウロクシギの記録もある。「日本の重要湿地500」にも指定された。

黒岳原生林と男池

別府・由布市 景観 自然

緑輝く神秘の山

 くじゅう山群の東端に深い自然林をまとった山がある。遠望すると黒く見え、その名も黒岳。複式火山で、頂上部に「みいくぼ」と呼ばれる直径1キロほどの爆裂火口跡がある。火口壁には五つのピーク(岩峰)。西側の高塚(1587メートル)が最高点。東寄りの巨岩の積み重なる峰が天狗、ほかに荒神森や一段低く前岳などもある。
 くじゅう山群は総体的に草付きの山が多く明るいが、この山は全山が樹林に覆われて暗い。できた地質時代もほかの山に比べ新しい。この新しさのため山体内部には空洞が目立つと言われ、冷たい風の吹き出す風穴が見られたりする。
 さらに樹林と空洞の存在は、麓に清冽な泉を湧かせる。湧水で有名なのは男池。「日本の名水百選」に選ばれ、訪れる人が多い。さらに風穴へと登山道を伝うと、ひっそりと隠し水も湧いている。さらに東の麓には炭酸ガスなどを含む白水の鉱泉もある。
 自然林にはブナ、ミズナラ、カエデなどの巨木が多く、森に入れば頭上を覆い隠す。昔は猟師が入る程度で、その猟師さえ迷うことが多かったと伝える。ある猟師が道を失い、山中で囲碁に興じていた仙人に教わって里に下ったところ、山の一日が里では1年たっていたという、日本版リップ・バン・ウィンクル伝説があるほか、鬼馬、巨猿など怪奇な伝説が多い。
 そのため神秘の山として恐れられた時代が長く、江戸期の『豊後国志』は「神山」として登ることは困難と述べ、岡藩三代藩主の中川久清が頂に至る者を募って登らせたが、一人として登れなかったと紹介する。
 近年、登山ルートはかなり整備され、神怪に遭うこともなくなった。新緑の季節には、深い森のなかではあでやかなシャクナゲの花に出合う。

姫島のアサギマダラ

国東半島 自然

千キロ飛ぶ数千匹

 国東半島沖に浮かぶ姫島は、九州と中国地方、また周防灘と瀬戸内海を結ぶ海の十字路であり、船にとっては島そのものが灯台の役を果たしているが、そこはまた、南北に1000キロ以上を移動する渡りのチョウ・アサギマダラにとっても大切な島。今では日本一の中継・休息地として知られるようになった。

 アサギマダラの漢字表記は浅葱斑。浅葱は若いネギのような薄い青緑色で、それが斑模様となってチョウの羽を彩る。日本列島から南は台湾にかけて、遠距離移動をするチョウである。

 姫島に飛来するのは初夏と秋の二度。初夏は5月から6月にかけて、島の北西部にある「みつけ海岸」でスナビキソウを求めてみつを吸い、秋は10月を中心にフジバカマの咲く東部の金地区に集まる。その数は少ない年でも数百匹、多い時には数千匹にも達する。細かく羽ばたくこともなく、ふわふわと楽しげに滑空し、人を恐れる様子もなく、観察にはもってこい。

 分布は日本列島から朝鮮半島や中国大陸、台湾など南の島からヒマラヤ山脈まで。日本で見られるのは本土と南西諸島、台湾の間を往復するもの。春に北上し秋に南下する。

 姫島では「守る会」の人たちや小学校の児童たちが観察やマーキングをしている。それによって「姫島マーク」が北では2週間後におよそ660キロ離れた能登半島の先端、南は2ヵ月後に約1300キロ遠い八重山列島で見つかっているが、実際はもっと移動しているらしい。研究者によると直線距離で1500〜2000キロ、1日に200キロを移動したチョウもいた。

 子供たちはマーキングするとき、併せて「夢」を乗せていることだろう。姫島には韓国とのつながりを持つ伝説があり、姫島踊りには南の香があるとも言う「国際的」なところだ。

由布岳南麓の野焼き・草原

別府・由布市 景観 自然

春呼ぶ名山の火祭り

 由布岳(標高1583メートル)は豊後富士とも呼ばれ、大分県の代表的な名山。ただ、駿河の富士山と同じく独立峰ではあるが、コニーデ型の長く裾を引く山容ではなく、くじゅう山群や隣の鶴見岳などとともにトロイデ型の鐘状火山である。 東西二つの頂を持つ双耳峰で、由布院盆地から仰ぐと二つの峰が良く分かる。しかし、かつて豊後国府のあった大分市からだと、東の峰の頂が平に見え、傾斜はきついが富士山型で望まれる。
 古く『豊後風土記』には柚富峰と記され、由布院盆地にはコウゾ類の木が多く、それで木綿を作ったのが盆地と山の名前の起源であるという。 さらに木綿山として『万葉集』に登場する。万葉には二首詠まれ「おとめらが放りの髪を木綿山雲なたなびき家のあたり見む」がその一つ。
 ともあれ古代から現在まで、この山ほど多くの詩歌に歌われた山は大分県内でも少ないだろう。滝沢馬琴が若き日の源為朝を登場させる小説『椿説弓張月』の舞台にも選ばれた。それほど人々に親しまれ、大分人のお国自慢の山なのだ。
 山の北には塚原の高原、南には別府・由布院を結ぶ九州横断道路が走り、ここにも草原が広がって正面登山口となる。登山者の姿は絶えない。そして、この南麓草原の浅春の名物が野焼きである。
 野焼きは冬に枯れた草を焼き払い、春に立派な若芽を得て良質の草を育て、草原を維持、再生させるのが目的。同時に枯れ草に付いたダニなどの害虫をも退治する。
 大分県内では久住高原や飯田高原、また由布岳近くでは十文字原などの野焼きが知られ、別府市街地から望まれる扇山の火入れは観光資源ともなっている。大分県中部草原地帯の大規模な野焼きは、まさに「火の祭り」とも言えるだろう。
 美しい草原が維持されているのは、この野焼きがあればこそ。そこには人と自然の共生の在り方さえうかがえようか。

姫島の黒曜石産地

国東半島 自然 遺跡・城址

古代人の必需品

 今から何千年前になるだろうか、先史時代に姫島に漕ぎ寄せる縄文人の丸木舟があった。彼らは今の観音崎で、黒曜石の断崖を見つけて狂喜したことだろう。さっそく採取して持ち帰り、槍の穂先や矢尻、包丁などに加工した。九州だけではない。中国や四国からも舟はやってきた。各地の遺跡から姫島産黒曜石の石器が出土している。

 姫島は火山によって生まれた島である。黒曜石も火山岩の一種で、流紋岩質のマグマが水の中など特殊な条件の下で噴出することによってできたと考えられている。ガラス質で硬く、割ると非常に鋭い貝殻のような破断面を示す。それが鋭利な刃物の役を果たした。

 黒曜石の産地は日本列島に60ヵ所ほどあるというが、姫島は佐賀県腰岳とともに九州の二大産地とされ、全国でも屈指。黒曜石と呼ぶように黒く輝くのが一般的だが、姫島の黒曜石は乳白色、あるいは灰色で、加工されても姫島産とすぐに見分けがつく。出土地は大分県内の山間部まで広がっているのはもちろん、岡山、島根、広島、愛媛、高知などの各県にわたる。

 姫島は瀬戸内海の海上交通の十字路と言える位置にある。各地から人々がやって来て、内海という動脈による原石の流通ルートがあっただろう。縄文時代だけではない。それ以前の後期旧石器から、以後の弥生時代まで、実に2万年に及ぶ期間にわたり採取されたと考えられる。

 黒曜石は「姫島七不思議」の一つ、観音崎の千人堂の一帯に露岩の状態で高い崖となっている。崖は海中にも続き、その量は莫大。国の天然記念物に指定されている。それだけではない。大分県の天然記念物に、ス鼻岬の藍鉄鉱、大海の地層褶曲がある。また、島は四つの火山島の集合体であることなど、地質・地形研究の宝庫なのである。

内成の棚田

別府・由布市 産業・産業遺構 自然

農民の汗の結晶

 棚田とは、傾斜地にある稲作地の集積。狭い田んぼが重なって、一目で見渡せる。英語でライス・テラスと言うように、たくさんのテラスが積み重なる。畑の場合は段々畑である。
 稲作の適地は、水利に恵まれ、しかも水はけの良い土地。日本列島はもともと傾斜地が多く、そこに水田を営もうとすれば棚田になる。傾斜の少ない平野部や湿地での灌漑技術が発達するのは近世だから、それ以前は当然のこととして傾斜地を選んで水田を開いた。
 山がちな大分県では、とりわけ棚田が目立つ。農水省認定の「日本の棚田百選」のなかに、大分県からは内成のほか由布市の由布川奥詰、豊後大野市の軸丸北、玖珠町の山浦早水、宇佐市の両合、中津市の羽高の6ヵ所が選ばれた。全国でも五指に入ろうという数の多さである。
 内成棚田は戦国期から江戸期にかけて開かれ、面積は40余ヘクタール、水田およそ1000枚とまさに千枚田。これを60戸で維持する。平均勾配はほぼ10分の1、つまり水平距離10メートルで1メートル高くなる傾斜。すぐお隣に由布川奥詰棚田の5ヘクタールもあるから、棚田風景では日本有数。
 初夏から水が張られ、田ごとの月を映し、盛夏には緑の風、秋には黄金色の穂波をヒガンバナが赤く縁取る。大観光地・別府の背後に見事な風景が広がる。
 景色だけではない。棚田は国土の保全や生態系の保護にも欠かせない。さらに地区では、棚田米のブランド化で高い付加価値を目指している。
 地球の各地にも棚田は多い。韓国、そして中国の雲貴高原、ベトナム、タイ、ネパールからフィリピンやジャワ、バリの島々。筆者はパキスタンでも見た。イランやマダガスカル島にもあるとか。棚田は、稲作農民の知恵と汗の結晶とも言える存在である。

高島の自然と戦争遺跡

大分市 景観 自然

渦潮に囲まれて

 佐賀関半島の先端、関崎(地蔵崎とも 呼ぶ)の沖合3.5キロ、速吸の瀬戸 (豊予海峡)の渦潮に高島が浮かぶ。瀬戸内海国立公園のエリアにあり、景色もさることながら、約80ヘクタールの小さな島には自然がぎっしり。ビロウ自生地とウミネコ営巣地は大分県の天然記念物である。

 ビロウ樹は江戸期の『亀山随筆』『豊後国志』などにも記述があり、本数は少なくなっているが、自生の北限とされる。豊後水道に入る黒潮が運んだ。

 ウミネコは猫に似た鳴き声が名前の由来となったカモメ科の鳥で、3月ごろに飛来してコロニーをつくり、卵を産み、子を育てて7月から8月ごろに去って行く。 島の東端から、近接する白滝島、船間島、アシカバエに集中し、その数6000羽以上と言われ、結晶変岩の岩壁や磯が白く埋まるほど。こちらは営巣の南限とも言い、遊覧船が近づくと上空を飛遊する。

 四国・佐田岬との間の海峡は関門、鳴門両海峡とともに外洋と瀬戸内海を結ぶ。速吸の瀬戸と呼ばれるように潮流は 渦潮をつくって速く、海の難所の一つ。それが操船の巧みな海部の民を育て、豊後水軍を生んだ。

 日本神話の神武東征説話に登場する椎根津彦は有名だし、黒砂・真砂の海女姉 妹伝説、そして海峡の神・早吸日女は、いずれも神社が旧佐賀関町(大分市)にある。そして今は、「関アジ・関サバ」を追う漁民の心意気。

 「関」の名は、海の関門・関所に由来す る海上交通の要衝。それは近代、日本の国土防衛の前線となった。長らく無人島だった高島は明治維新の後、禄を失った武士たちを一時的に入植させたが、それを退去させ、1920(大正9)年から島と半島は要塞化された。「豊予要塞」の砲台、弾薬庫などの諸施設は現在、地中に、あるいは草に埋もれて、島のあちこちに眠っている。

上野の森

大分市 自然

薫る自然と文化

 大分市中心街と南大分地区を限るかのように、長く延びる丘陵がある。標高およそ 70 メートル。まるで伏せた竜の姿。その臥竜の頭部に当たるところが上野の森。一段低く標高 30 メートル辺りに上野丘の町並みが広がり、台地が大分川河畔の元町に切れ落ちたところを竜ケ鼻とも呼ぶ。

 上野の森の中心になるのは都市公園の上野ケ丘墓地公園。開園してすでに半世紀を経た。約9ヘクタールに豊かな植生が見られるほか、展望の良さに恵まれ、付近の人たちだけでなく、大分市民の憩いの場所になっている。

 しかし、上野丘の魅力は森だけではない。街中を含めて、そこには大分の原点とも言える歴史と文化・芸術がある。

 古きを訪ねると、まず大臣塚古墳。5世紀ごろの古墳時代全盛期のもので、百合若大臣伝説を残す。竜ケ鼻の岩には元町磨崖仏、近くに岩屋寺磨崖仏。丘に登ると、岩屋寺の跡を継ぐという円寿寺。さらに金剛宝戒寺などが、多くの文化財を抱える。仏に対し神では松坂神社、弥栄神社など。政治的には南麓・古国府の古代国府に次ぐ高国府、中世・大友氏の上原館(西山城跡)が市街地を見下ろし ている。

 近代になると、これに学問と芸術が加わった。大分中学校を継ぐ大分上野丘高校、大分経専の後の大分大学経済学部、それが移転すると大分県立芸術文化短期大学が立地した。そして森の中に大分市美術館もできた。東京の「上野の森」に匹敵、いやそれ以上の「森」なのである。

 だが、その自然の森も、次第に荒れてきた。見かねた住民が立ち上がり、森を守るボランティア組織が清掃や剪定・維持活動を展開している。文化の面でも立ち上がる人たちがいる。アートの森を盛り上げようとする個人・グループが動き始めた。地域の力が今、聖域を守ろうとしている。

高崎山

大分市 自然

別府湾のシンボル

 大分市の西のはずれ、別府市との境近くに、別府湾に面して立つのが高崎山。標高628メートル。両市の市街地からいや応なしに目に付くヘルメット形の急傾斜の山で、文字通り海に高く突き出した崎であり、航行する船にとっては絶好の目印。別府湾のシンボルでもある。

 山容がタキギのしばを積み上げたような姿であることから、昔は柴積山とか柴津山とも呼ばれ、これが詩歌に詠まれる際に四極山となったらしい。『万葉集』にある高市黒人の「四極山打ち越え見れば笠縫の島漕ぎ隠る棚無し小舟」の歌はこの山のことだとも言う。

 古代には豊後国府に連絡するための烽火台が置かれ、中世には大友氏の城が設けられた。今も山頂に見られる石積みの大きな穴は、この烽火の釜だと語られているが、あるいは城の水槽だったかもしれない。南北朝の時代には合戦の記録もあり、現在も山頂部に防塁や竪堀など 城構えの跡が残っている。

 自然も比較的に良く残されているが、高崎山と言えば野生の猿をすぐに思い起こす。古い記録にも猿が多くすむと書かれている。戦後、餌付けが行われ、自然動物園として観光資源、あるいは生態研究の場ともなった。

 猿寄せ場は古くから座禅修行で知られた万寿寺別院の境内で、海岸には生態水族館マリーンパレス「うみたまご」も立地する。国道10号・別大国道沿いで交通の便も良い。

 だが、海辺に国道が通じたのは近代のこと。以前は海際に狭くて危険ながけ道があっただけ。往来する人がすれ違うのも大変で、人の姿が見えると互いに声を掛け合って広いところで待ったとさえいう。このため江戸時代までは山の南を越すのが普通で、これが銭瓶峠・赤松峠。黒人が「打ち越え」たとすれば、この道である。 現在、 峠の近くを大分自動車道が走る。さしずめ古い公道が今に復活したとの感がある。

柞原の森

大分市 神社・仏閣 自然

一つの大きな生命

 柞原の森は、生命のみなぎるところ。高さ20メートルにも達するイチイガシやタブノキなど高木の下には、その半分にもならないモチノキなど、さらに人の背丈をやや上回るアオキやヤブツバキなどの若木、地面近くにはランやシダ類。コケが広がるかと思えばキノコもある。緑あふれる森だ。

 植物だけではない。ノウサギ、タヌキ、イノシシが歩き回り、いろいろな鳥の鳴き声が聞かれ、足元には多様な昆虫。落ち葉の下にもいれば、土の中にもいる。それらが助け合い、時には争い、子孫を育てては死んでいく。柞原の森は、それ自体が一つの大きな生命体にほかならない。

 この常緑広葉樹林は西南日本の国土の原像。かつては大分県内はもちろん、広い範囲を覆っていた。ずいぶんと減っては来たが、各地にわずかずつ生き残っている。その典型が柞原の森である。

 同じような森を南へたどれば宮崎県の綾町、鹿児島県の屋久島の森などがそうだし、さらに琉球弧を経て台湾から南洋の熱帯多雨林に至る。西へは中国・雲南の濃密な照葉樹林から、ネパール・ヒマラヤの南のふもとにまで通ずるだろう。

 1000年も2000年も前からの森の姿が、柞原になぜ残ったか。それはここが「八幡様の森」だからである。柞原八幡宮は豊後で最大とされた神社。1200年近い歴史を持ち、その神域なのだ。宇佐八幡宮にまったくよく似た森が生きているのと同じように、人々の「入らずの森」となっていた。

 あるいは、子供たちにとってはちょっぴり怖い森だったかもしれない。今、森では自然観察会なども開かれ、子供の歓声も聞かれる。自然の仕組みを学び、営みを知る「生きた教室」となった。

 問題は、この貴重な森の姿を今後にどう残し伝えるかだ。それは人間の知恵と努力にかかっている。柞原の森を守ることは、地球の環境を守ることでもある。

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