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県北エリア

宇佐神宮はミステリアスだ。全国の八幡社の総本宮となる神社がなぜ宇佐にあるのか。 神仏習合を成し遂げ、日本の文化に大きな影響を与えることができたのはなぜなのか。 「なぜ」の向こうに、大分の文化のルーツがある。

中津の人形芝居

伝統芸能・祭り

伝統の舞、脈々と

 中津市北原の原田神社では毎年2月初め、万年願の行事で人形浄瑠璃が演じられる。また、同市伊藤田の古要神社では旧暦閏年の10月例祭で傀儡子の舞として古要舞と神相撲が奉納され、国の重要無形民俗文化財に指定されている。

 北原人形芝居には、鎌倉幕府の執権・北条時頼にからむ創始伝説がある。時頼が諸国巡視で北原に来た際、病に伏し、村人の看病で回復した。その全快祝いで村人が踊りや人形芝居を見せたところ、時頼は「踊りを業として世を渡れ」とことのほか喜んだとか。

 北原芝居の特色は、一般的な人形の扱い方である「三人遣い」のほか、一人で操る「はさみ遣い」が伝わること。全国的にも極めて珍しい。

 万年願では保存会の人たちによる「大功記」や「伊達娘恋の緋鹿子」などのほか、地元の三保小学校の児童による「傾城阿波の鳴門」もあり、当日の境内は大にぎわい。

 古要の傀儡子も伝承は古い。奈良時代に南九州で隼人の乱が起きた時、宇佐神宮も加わって鎮圧に派遣され、戦場で傀儡子を操り隼人が見とれているのを狙って攻めた。以来、隼人の霊を慰めるため舞わせたという。

 傀儡子は両手と片足だけが動くたいへん素朴なもの。舞には26体、相撲には東西各12体が登場する。相撲は東西対抗戦で最初は交互に勝つが、途中から東軍の連勝となり、最後には西軍の住吉神が総がかりの東軍を圧倒する。

 傀儡子のつくりはかわいらしく、動きも単純でユーモラスだが、何となく厳粛。なにしろ傀儡子そのものが神なのだ。

 北原も古要も宇佐神宮や薦八幡社にゆかりの深い村で、神社に奉仕する人の中から芸能、あるいは運輸に携わる人たちが出たらしい。これを散所と呼んだ。江戸期まで各地にあり、豊後高田市の算所芝居や杵築市の歌舞伎なども有名である。

中津干潟

自然

生物の揺りかご

 周防灘の大分・福岡両県の沿岸、つまり豊前海の関門海峡から国東半島の付け根にかけて、断続的に広大な干潟がある。有明海と並んで日本屈指の広さを誇り、そのほぼ中央部にあるのが中津干潟である。

 中津港を挟み10キロの海岸線、広さは約1350ヘクタール。背後にはその名も大新田の干拓地が防風林で守られ、その松林の続く沖合には干潮時に約2キロ、場所によっては3キロもの干潟が姿を現す。浜辺から眺めると、干潟の先端と水平線が重なり合うようにさえ感じられる。

 砂地もあれば泥地もあり、その混じり合った砂泥、さらに小石の広がり、塩性の湿地。楽に歩けるところもあれば、足を泥に取られる場所もある。と言うことは、多様な環境が用意されているわけ。それに伴って生物相も多彩。NPO法人「水辺に遊ぶ会」(中津市)の調べでは約500種の生き物がおり、その4割が絶滅危惧種とか。

 カブトガニやアオギス、ナメクジウオ、各種の貝類。ズグロカモメやオオソリハシシギなどの鳥も飛来する。それは好漁場を生みだし、先史時代から人々の生活を支えてきた。

 干潟は「海の森」とも呼ばれ、「遊ぶ会」は里山に対して里海の言葉をつくり、環境省に「里海創生支援事業」に取り組ませ、全国4カ所のうちの一つとして指定された。

 会の基本活動は子供と干潟に遊ぶことに始まり、市民に海の豊かさや楽しさを知ってもらうことを狙いにした。清掃や観察などの活動はボランティアで行われてきたが、やがて漁民も乗り出し、伝統の笹干見漁が復活した。最近では企業や行政も加わって、自然との共生の運動が幅広く着実に展開されている。

一目八景

景観

岩・木・水マッチ

 名勝耶馬渓は「耶馬十渓」と呼ばれるように、かなり広い範囲にまたがっている。その一つ、深耶馬渓を代表するのが一目八景(中津市)。山国川の支流、山移川の流域にあって、耶馬渓式風景の核「岩・木・水」をよくマッチさせた眺めである。川岸に連なる一筋の旅館、商店街の中心部に展望台が設けられている。360度の眺めで、八景のそれぞれの方角に名札がある。海望嶺、仙人岩、嘯猿山、夫婦岩、群猿山、烏帽子岩、雄鹿長尾嶺、鳶の巣山(観音岩)がそれ。岩山の姿を見て「ああ、そうか」と納得。

 耶馬渓はほぼ全域がメサ(卓状台地)である。テーブル状の溶岩台地が広がり、それを山国川とその支流が浸食し、深くえぐり込んだ。同地方で「○○の景」と呼ばれるのはほとんどが浸食崖とその岩山であり、八景も同じ。

 ただ、地域によって溶岩に違いがある。大きく見て北部は古い時期の溶岩からなり、南部は新耶馬渓溶岩と呼ばれる。古い集塊岩風景の奇岩怪峰に比べ、新期溶岩は節理を見せる硬い岩で、U字形の谷間の両岸に石柱を並べ立て、川床も一枚岩が目立つ。深耶馬渓がその典型。

 八景は、こうした石柱に樹木が絡まる景色。紅葉の時季がとりわけ素晴らしい。同じモミジでも紅葉、黄葉があり、その色の濃さも違う。さらにそれを常緑樹が際立たせる。

 山国谷に耶馬渓という中国風の名を付けたのは頼山陽で、彼によって「天下の名勝」が知られるようになったが、山陽が歩いたのはほぼ本流域のみ。彼に深耶馬渓を見せたかった。

 一目八景から歩道をたどると麗谷があり、さらに近くには若山の景、錦雲峡、台地を越えると裏耶馬渓。温泉もまた多い。地元で言う「神々が描いた名画」の彫りの深い風景を、いで湯とともに楽しんでほしい。

薦神社と御澄池

神社・仏閣

穀倉地帯の原点

 中津市の中心街から東南へ5キロ弱、緑と水に囲まれ、桜の名所でもある大貞公園がある。一帯は神苑。その核となるのが御澄池で、池中に鳥居が立ち、それを内宮として薦神社・大貞八幡社が華麗な姿を見せる。

 池は人工のため池で、堤防から見ると水面が三つの角を持つような姿をしていることから三角池と呼ばれ、それに佳字を充てて御澄となったと言われる。別名は薦池。宇佐の神は池に生える薦を枕にしてやすまれるとされ、薦刈りの神事が行われた。つまり、神の宿る神聖な池であり、宇佐神宮の元宮の一つ。

 これを神体として建てられたのが薦神社であり、建物はいわば拝殿。現在の神殿は中津藩主だった細川忠興によって17世紀初めに再建され、楼門(国指定重要文化財)もまた藩主・小笠原長次の再建という壮麗なもので、朱色が池の水と周囲の緑によく映える。

 宇佐の神を奉じた人たちは古代日本の産業、文化を担った渡来系の一族で、北九州から中津、宇佐地方に移動してきたと思われる。彼らは朝鮮半島から当時の最先端技術を持ち込んだ、今でいうハイテク集団だった。

 そのテクノロジーには金属の精錬、加工のほかに土木技術もあった。それを生かして建設したのが御澄池であり、それを核にして周辺に大池をはじめ大小数多くのため池を造った。

 それを受けて、以後、近代にかけて多くの先人たちが山国・駅館両川はじめ、たくさんの川から水を引き、中津から宇佐にかけての平野に池と井路による水利網を広げ、現在の穀倉地帯を造り上げた。

 御澄池は神体であるとともに、かんがいの原点であり、大分県だけでなく、北部九州から四国、中国地方の瀬戸内海沿岸、さらに河内や大和平野に濃密に分布する、ため池群の根源の池であると考えてよいだろう。

 

青の洞門と競秀峰

景観

奇岩と人の合作

 一口に耶馬渓と呼んでも範囲は広い。国の名勝として指定されている範囲も中津市から宇佐市、日田市、玖珠町、九重町に及び、一般に「耶馬十渓」に区分されている。その中心となるのが本耶馬渓、なかんずく青の洞門と競秀峰である。

 耶馬渓の名付け親は頼山陽であることはよく知られている。1818(文政元)年、九州を歴訪した彼は、日田から中津への途次、山国川流域をたどった。岩と水、それに絡まる緑の風景に目を見張った彼は、山国谷を中国風に耶馬渓と記し、『耶馬渓図巻記』を描き、「耶馬渓山天下無」とたたえたのである。

 山陽が歩いたのは本耶馬渓そのもの。山国川の岸辺に競い立つ秀峰と、そこにうがたれた洞門は、彼をして驚嘆せざるを得ぬ景色であったに違いない。

 彼の耶馬渓絶賛は「天下の名勝」を世に知らしめたが、近代になって青の洞門を有名にしたのが菊池寛の小説『恩讐の彼方に』であった。僧・禅海は競秀峰の岩壁の下、河畔の危険な道をたどる人々の苦難を救おうと、1734(享保19)年から何と30年の歳月をかけ、鑿と槌を振るって全長342メートル、うちトンネル部分が144メートルの洞門を掘り抜いた。今は拡張されているが、当時の明かり取り窓などが労苦をしのばせる。

 耶馬渓は火成岩地域であり、風景を形作る溶岩は大きく見て旧期と新期に分類される。新期は一目八景(おおいた遺産)のように滑らかな石の造形だが、旧期は溶結凝灰岩で、奇岩怪峰を演出する。その典型が競秀峰と言えるだろう。それをくりぬいた洞門とともに、「人と自然が織りなす日本の風景百選」となるのも当然である。

 競秀峰は岩峰を伝うこともできる。仰ぎ見る岩の連なりは素晴らしいが、岩角から見下ろす山国川と、その流域の集落のたたずまいもまた格別である。

羅漢寺

神社・仏閣

法灯守り継ぐ聖地

 本耶馬渓の観光拠点である競秀峰・青の洞門から少しさかのぼり、山国川支流の跡田川を入ると羅漢寺がある。観光的にはセットとされることが多い。

 「鎮西羅漢の法窟」とされる寺は、険しい岩峰・岩壁の中腹に仏域を設け、いつの時代にも変わらぬ多くの参拝者を迎え、伝統の法灯を守り継いできた。今日も伝わる「ヒコ・ラカ・ウサ」の言葉は、聖地としての英彦山・羅漢寺・宇佐神宮の巡礼・巡拝路を語っている。

 伝えによると、聖域は645(大化元)年、インドの僧・法道仙人の洞窟修行に始まるという。無漏窟に安置される3700体余りといわれる羅漢像は、1337(延元2)年に当地を訪れた昭覚禅師が中国の僧・順建とともに彫ったという。大小さまざまの無数のしゃもじには参拝者の願いが込められる。

 無漏窟とともに、凌雲閣の見事な構えは訪れる人を圧倒する。伝説では、かつて大友宗麟が寺社の焼き打ちをしたとき、羅漢寺にもたいまつをかざした兵士がなだれ込んだ。ところが、寺の屋根に大きな蛇竜がいて寄せ手を遮る。これに鉄砲を撃ちかけると、すさまじい稲妻が走り、雷鳴がとどろき寺を守った。

 登山口のふもとには、青の洞門を掘った禅海の墓と、掘削に使った鑿、槌を保存する禅海堂もある。近くから寺へのリフトがあるが、上りか下りの一方は昔ながらの参道を経由してほしい。杉木立の中にこけむす石畳が通じ、山門や石塔などが、古刹の風格を語りかけてくれる。

 寺の門前には、田畑の上にびょうぶのように連なる岩峰の古羅漢の景がある。頂の直下の岩壁には昔に堂宇を構えた跡や仏像、石塔などが残っている。

 なお、近くの跡田川の中州には耶馬渓風物館が耶馬渓の歴史資料や文物を伝え、上流には洞鳴の滝なども見られる。

福沢諭吉旧居

建物・旧居

18年間学びの場

 福沢諭吉は1835年1月(天保5年12月)、中津藩の大阪蔵屋敷で生まれた。父の百助が藩の回米方だったからだが、すぐに亡くなり、母子6人は中津に帰ってくる。諭吉は末っ子であり、まだ1歳6カ月だった。住んだのは、留守居町のもともとの屋敷。現在の旧居の前で、通称旧宅跡と呼ばれるところ。

 その後、母の実家だった今の旧居に移る。母屋は木造かやぶきの平屋で5間、北側に瓦ぶき2階の土蔵があり、この2階の狭い部屋が諭吉の勉強の場だった。

 父・百助は儒学者だった。諭吉の名前は、彼の生まれた当日に「上諭条例」(清・乾隆帝治下の法令記録)を入手できたのを喜んだからと言われる。

 しかし、武士としては下級で、身分格差の厳しい藩内では名を挙げられない。後年、諭吉が「門閥制度は親の敵で御座る」(福翁自伝)と書いたのも、封建制を打ち破るのに力を入れたのも、この辺りに由来するのか。

 諭吉は長崎に遊学するまでの18年間をここで過ごし、父の師でもあった白石照山や多くの人に学び、さらに大阪の緒方洪庵の適塾を経て江戸に行き、生涯の多くを東京で過ごした。

 1870(明治3)年、「中津留別の書」を残して母を伴い一家は中津を離れ、家は親戚に売却され、さらに旧藩主・奥平家を経て明治末に当時の中津町に寄付されて現在に至っている。国の史跡に指定され、隣接して資料館も建てられている。
 「留別の書」を記してはいるが、諭吉には思い出深い家だった。江戸・東京で過ごしながらも、売り払うまでにたびたび帰省しているし、1894(明治)年には学びの場だった土蔵の壁土を記念に持ち帰ったという。

 ベストセラー『学問のすゝめ』初編もまた、中津市学校の開校に際して「同郷の友人へ」の趣旨で書かれたものだった。

院内の石橋

石の文化

生きている文化財

 大分県は「石の文化」を誇りうる屈指の地域である。全国の7、8割を占める磨崖仏はじめ、独特の国東塔などおびただしい石塔類、あるいは名人芸ともいえる石垣造りの技と美。だが、石橋、つまり眼鏡橋などとも呼ばれる石造アーチ橋の数が日本一というのは意外と知られていない。

 「大分の石橋を研究する会」によると、県内に現存する石橋は約500。そして何と、そのうちの1割、60余橋が宇佐市院内町に現存するという。

 院内町はお隣の安心院町が盆地なのに対し、深い峡谷の土地柄で、昔から「院内谷」と呼ばれてきた。その谷を形成し、多くの石橋を架けるのが駅館川の上流にあたる恵良川とその支流である。

 石橋のたくさん架かるのは恵良川本流のほか院内川、高並川だが、その他の支流もほとんど残らず石橋を持っている。

 有名なものは県指定の文化財となっている鳥居橋、御沓橋、町指定の荒瀬橋、富士見橋、西光寺橋、飯塚橋、分寺橋などだが、水雲橋なども忘れられない。

 最も知られている鳥居橋は五つの連を持ち、橋長55メートル、橋幅4メートル余り。谷底から見上げる高さもかなりのもので、姿は美しい。「ローマの水道橋を思わせる」といわれ、貴婦人の姿とも評される。1916(大正5)年、松田新之助を石工として架けられた。

 松田は近代の名工で、ほかに10余の橋を架けているが、江戸期の山村藤四郎はじめ、大正から昭和初期にかけて、院内谷では20余人の名工の名前が伝わっている。

 御沓橋、富士見橋、分寺橋などは三連。その他の橋もそれぞれに風格を持つが、特筆されるのは60余橋のほとんどが今も渡られていること。まさに「生きている文化財」なのである。

安心院の鏝絵

建物・旧居 民俗

幸せを呼び込む

 大分県内の農村部、とりわけかつての村の中心となった古い家並みを歩いていると、あちこちの白壁にパステルカラーというか、淡い色合いの絵が描かれているのを見かける。漆喰を鏝で整えた浮き彫りのようなもので、戸袋や妻壁など屋外に面している。これが鏝絵。

 鏝絵は全国各地にあるが、特に大分県に多いとされている。中津市の耶馬渓町、杵築市の山香町、さらに日出町など全県で約700件、なかでも宇佐市安心院町がひときわ多く、50ヵ所は、見学ができる。

 絵柄はさまざま。家紋をはじめ、恵比寿、大黒、布袋から浦島太郎、鯉の滝登りから猿の三番叟、鶴亀、竜虎、唐獅子、さらには初夢の一富士・二鷹・三茄子、あるいは松竹梅など、当然ながらめでたいものばかり。幸せを呼び込み、邪悪なものの進入は防ぐ。つまり福は内、鬼は外の意図。

 ほとんどが明治期の作品で、大正期のものも幾つか。なかには平成の作品もあり、ワインとスッポンの安心院名物も登場した。作者の名前も10人以上分かっている。

 1996(平成8)年には「大分の鏝絵習俗」として国の無形民俗文化財に選ばれた。

 なぜ、こうまで鏝絵が多いのだろうか。素晴らしい腕を持った左官さんがいたことはもちろんだが、もともと安心院は養蚕などが盛んで、農村経済が潤っていたため、白壁の家や土蔵を建てる家が多かったからという。

 鏝絵は美術作品とは言えないかもしれない。しかし技法はすごい。形を作ったうえで絵の具を塗れば簡単にできようが、最初から漆喰に鉱物性の絵の具を練りこんでいる。だから屋外で風雨にさらされても色は消えない。そこに職人の心意気を感じる。それを後世にどう伝えていくか。課題もまた多い。

和間海岸の干潟

自然

宇佐神宮と深い縁

 周防灘に面する県北の中津市から宇佐市、豊後高田市にかけての海岸線は遠浅の砂浜で、県南・豊後水道のリアス式海岸とはまったく対照的。その遠浅海岸の代表的なものの一つが和間海岸で、広い干潟が見られる。

 和間海岸は宇佐市の東部で海に入る寄藻川河口の西、長洲町の東に当たり、昔から「和間ノ浜」として知られる。『宗像神社古縁起』には神功皇后が朝鮮出兵の際、宇佐の「和摩浜」で48隻の船を造ったと記されているそうだし、『八幡本紀』には和間の浜は宇佐郡松崎の海辺で、放生会を執行するとある。

 神功といい放生会といい、古くから宇佐神宮と関係の深い海岸である。その伝統の放生会は10月に浮殿橋の横にある和間神社で行われ、大昔に宇佐神宮が鎮圧した隼人の霊を慰める行事とされている。

 海岸線には防風のための松林が連なり、日本的な海岸風景である「白砂青松」そのもの。現在では和間海浜公園が整備されて、干潟での潮干狩りなどが楽しめる。海辺で遊べば、松の緑が心地よい憩いの木陰を提供してくれるだろう。

 ところで、海岸の背後は豊かな田園地帯。ここに久兵衛新田、岩保新田、あるいはさらに奥に北と南の鶴田新田などの地名が見られる。ほかにも近くには駅館川の西に神子山、郡中、高砂、順風、乙女、あるいは浜高家などの新田の付く地名が並んでいる。

 これらは近世後期に遠浅海岸を堤防で締め切って干拓地を造成し、新しく開発した新田地帯である。開発の音頭を取ったのは西国筋郡代(日田代官)の塩谷大四郎で、宇佐郡や農民、または町人が請け負って開いたもの。久兵衛は広瀬淡窓の弟で、いわゆる日田金を動かした町人である。

 つまり、和間の海岸は農民たちの粒々辛苦の新田造成の後、さらに海に延びた砂浜なのである。

宇佐神宮の森と社

神社・仏閣

日本文化の基層

 古代宇佐文化は「豊の国」に、最初に花開いた本格的な文化であり、大分県のみでなく、日本の歴史や文化にさまざまな影響を与え、その基層の一つともなるものである。
 神域には上下宮のほか各種の摂社、寺院跡、森や池などがあるが、中心となる本殿は一、二、三の御殿。中央の第二殿に比売大神という三柱の女神を祭る。第一殿は八幡大神、第三殿が息長帯姫、つまり応神天皇と神功皇后が祭神。
 現在の場所に鎮座したのは8世紀から9世紀初めというが、歴史は極めて古く、創始にまつわる謎は多い。だが、三女神が最も古く、朝鮮半島に由来するらしい。女神は宗像大社の神と同じく航海の神とも言われ、女神を応じた一族は渡来した人たち。後に皇室神である応神、神功を迎えたと考えられる。
 神宮の歴史を語る紙幅はないが、特筆されるのは、それを奉ずる人たちが古代のハイテク集団だったこと。大陸の先進文化による土木、製鉄、製錬などの技術にたけ、北九州から中津、宇佐地方に入り、得意の土木技術で平野部を中心に田畑や水路網を開発し、金属を扱う技術では例えば東大寺の大仏造立に力を貸して朝廷と結びついた。
 同時に彼らは情報の受信、処理能力にも優れていた。いち早く仏教を取り入れ、神仏習合をなし遂げ国東に六郷満山文化を開いたり、常に朝廷や時の政治勢力と結びつくことができたのも、情報先進性の現れである。
 現在の国宝・本殿は江戸期の造営だが古式を受け継ぎ、朱塗りの柱が並ぶ壮麗なもの。特色は屋根。外院(礼殿)と内院(正殿)を切妻平入りにして前後に並列させ、連結部に大きな金の樋をかける。これが八幡造りと呼ばれるもの。境内からの礼拝ではなかなかうかがえないが、本欄の写真は高所からなので、特色が良く分かる。

オオサンショウウオと生息地

自然

太古の姿で今も

 19世紀に入ったころのヨーロッパでは、正体不明の奇妙な化石が学者たちを悩ませていた。なかには「ノアの方舟」の際の大洪水で死んだ赤ん坊の頭骨だととなえる者も出る始末。
 謎が解けたのは、日本に西洋医学を紹介したシーボルトが帰国にあたり、日本のオオサンショウウオを持ち帰ったことから。比較研究の結果、化石はヨーロッパ産のサンショウウオだと分かった。
 オオサンショウウオの先祖は、約3億年前に水中から出て陸上での生活を始めた最初の脊椎動物の仲間だと言われる。その後の地球の激しい変化を生き抜き、今と同じような姿になったのは約7000万年前と考えられる。
 これが「生きている化石」と呼ばれるゆえんであり、太古の生き方と性質を現在も残す。陸上生活に入っても、水から離れることは不可能。体を支えられないほどの足、大きなずうたいに似合わぬ小さな目などがそれ。
 山奥の薄暗い清流に暮らし、水中の小動物を捕食する。8月末から9月初めが繁殖期。環境の変化には極めて弱い。その彼らの生息地が大分県内にあり、日本での南限地。国の特別天然記念物に指定される。宇佐市院内町の余川だ。 駅館川から石造アーチ橋群で知られた恵良川をさかのぼると、飯塚あたりで支流の余川が合流する。今度は余川をたどると「いんない温泉」があり、左岸から岡川が入る。岡川の上流が、オオサンショウウオ生息地の中心部である。
 余川の本流域と岡川流域を余谷とも呼ぶ。滝貞や小平あたりでは棚田が広く見られ、日本の「棚田百選」の一つ。一帯には九つの集落があり、地域づくりも活発。全戸が参加して2000(平成12)年には「余谷21世紀委員会」が発足、農産物の生産・加工などの研究に精を出し、イベントも開催、大分大学とも交流する。当然、委員会が生息地の保護にも当たっている。

岳切渓谷

景観

ひんやり散歩道

 耶馬十渓のうち、椎屋耶馬渓の一角にあるのが岳切渓谷。椎屋というと東西の椎屋の滝など豪快な水風景や岩柱、岩壁などの景観を思い起こすが、岳切渓谷はあくまでも水が優しく、人々と戯れてくれるところである。そこでは、人は水と一体になる。
 渓谷は院内谷から入った温見川の上流部。川床が耶馬渓溶結凝灰岩の一枚岩からなっており、2キロほど続く。流れるのは踝をひたすほどの浅い水。10センチから深いところでもせいぜい20、30センチの緩やかな渓流だ。川床は滑らかでジャブジャブと歩くことができる。
 谷は広くなったり狭くなったりするが、頭上を覆うのは自然林中心の木々。季節に応じて色を変える。春は目に優しい新緑、夏はそれがぐっと濃くなり、秋は紅葉の赤。冬はツララなどを見ることもできよう。
 だが、何といっても水と戯れるのは夏場。渓谷のキャンプ場開きの後だ。夏休みはファミリーでいっぱいになる。渓流に沿って遊歩道が付いているものの、それは無視。サンダルかゴムぞうりを突っかけて、水の中を歩く。木漏れ日の下、涼しい風を受け、夏を忘れることだろう。 ゲートから30分も行くと大飛の滝となり、目の前が切れ落ちる。落差は27メートル。上からのぞき見するのは危険。
 もちろん春も秋も良い。春は小鳥のさえずりを聞き、秋は紅葉に包まれる。紅葉の色も赤、黄と多彩。落ち葉が水に舞って流れる。樹木や草花を調べる生きた教室ともなる。「豊の国名水15選」の水飲み場もある。冬の雪景色はカメラの対象。

 なお、流域も行く道も違うが、近くの大谷渓谷も一枚岩。奈女川上流の8キロほどだが、こちらは川床の傾斜が急で健脚向きである。

宇佐風土記の丘にある古墳群

遺跡・城址

クニの首長眠る

 宇佐市の真ん中を流れる駅館川の右岸台地に「宇佐風土記の丘」がある。ここが風土記の丘になり、県立歴史博物館が置かれたのは、一帯に多くの古墳があるからだ。地名を取って川部・高森古墳群と呼ばれ、6基の前方後円墳を中心に、円墳や周溝墓など100を超す古墳・墓地が集積し、国の史跡となっている。九州では宮崎県の西都原古墳群に続く規模である。
 前方後円墳で最大のものは福勝寺古墳(全長82メートル)で、次いで車坂、赤塚、免ケ平、角房、鶴見などの古墳がある。この中で最も注目されるのが赤塚古墳。全長57・5メートル、高さ約5メートルで、大きさはさほどではないが、築造は3世紀末と考えられ、九州で最も古い時期のものだ。
 1921(大正10)年の秋、2人の村人が夜陰に乗じてひそかに発掘、後円部にある箱式石棺の中に五面の青銅鏡を発見した。情報はすぐに考古学者の耳に入り、現地調査の結果、鏡はいずれも中国製とみられる優秀なもので、ほかに管玉、鉄刀、鉄斧や土器片を伴っていることが分かった。
 梅原末治氏(元京都大学教授)による調査報告が学会誌に掲載され、一躍して赤塚の名が知れ渡った。特に目を引いたのが、鏡のうち四面の三角縁神獣鏡が大和など各地で出土した鏡と同じ鋳型で作られたものだったことや、墳形から極めて初期の前方後円墳と判明したこと。
 つまり、それは初期のヤマト政権が畿内から瀬戸内海各地の首長と同盟関係を結びながら、統一王権を目指してついに九州に足がかりを得た証拠と考えられたのである。
 宇佐平野は海陸の要衝であり、九州の玄関だった。弥生時代以降、宇佐地方に勢力を張った有力集団・クニの首長たちは、赤塚に次いで免ケ平古墳に眠り、6世紀の鶴見古墳まで、代々の古墳群を形成していったのか。

龍岩寺

石の文化 神社・仏閣

岩窟に浮かぶ仏

 大きな岩窟に、まるで投げ込まれたかのような懸造りの小さな礼堂。龍岩寺奥の院である。内部に入ると、素木の三体の仏像が浮かび上がるかのような姿で訪れる人を迎える。思わず目をつむってぬかずきたくなる。
 宇佐市院内町の恵良川から支流の院内川沿いにさかのぼり、大門に龍岩寺がある。裏手の山道に入り、さらに岩壁の道を横に伝うと、眼前に奥の院が全容を現す。足元は谷。一本の大きな木に刻みをいれて作ったはしごがある。がけ道ができるまではこれを登ってきたのだろう。
 礼堂は桁行3間、梁間2間。屋根は外陣のみ片流れの板ぶき。床下の土台桁は両方の岩盤に架け渡され、これを三本の柱でしっかり支えている。 正面蔀戸横の板戸を開けて入ると、板敷きの外陣から格子を隔てて内陣の仏たちと対面できる。内陣には屋根がない。岩の天井が屋根代わりである。
 木造の仏は向かって右から薬師如来、阿弥陀如来、不動明王で、高さはいずれも3メートル前後。一木造りで木の肌そのものの白さ。ただ、結跏趺坐する腰から下は横材を使っている。
 ゆったりと座る三体の彫り方は大胆。しかし、お顔は気高く、肢体も優美。比較的簡単な手法から見て、岩窟の磨崖仏から木彫仏への過渡期の作で、藤原中期のものと推定される。礼堂には「弘安九年」(1286年)の墨書銘があり、当初は単なる仏壇に仏のみがおわしたらしい。いわば、仏を守る建物ではなく、仏を隠すことによって身近に仰がせるものか。おかげで仏は自然光の下、白く浮かび上がる。ともに国指定の重要文化財。
 伝説では、746(天平18)年、行基が宇佐神宮に詣でる途中で大雨に遭い、当地に宿ってクスで仏を彫り、寺を開いたとか。当初は天台宗に属していたが、後に禅宗に変わった。

宇佐海軍航空隊の戦跡遺構

遺跡・城址

苦しみの体験語る

 大分県内には「戦争遺跡」が各地にあり、かつての激しい戦火と、人々の苦しみの体験を目の当たりに語ってくれるが、朽ちるに任せられている遺構も多い。その中で、遺跡を文化財に指定し、後世に伝えようとする試みも増えてきた。宇佐市の施策が良い例である。
 宇佐平野の美田を飛行場として造成、宇佐海軍航空隊が開隊したのは1939(昭和14)年。当初は艦上攻撃機・爆撃機の搭乗員を実戦部隊に配備するための訓練が主体だったが、2年後の太平洋戦争の勃発とともに次第に作戦部隊に組み込まれ、ついには特別攻撃隊、いわゆる「特攻」の基地となった。多くの若者が飛び立ち、命を絶った。 このため、1945(昭和20)年の春から米軍機による激しい空襲が相次ぎ、航空隊施設だけでなく周辺の町や村も廃虚となり、兵士のほかにもたくさんの住民が亡くなった。
 戦後、飛行場を含む航空隊跡地は破壊処理とその後の大規模圃場整備によってほとんど消滅したものの、市当局や学者たちによる地図上での復元作業が進んでいるほか、わずかに残された遺構の保存が図られている。
 その一つが掩体壕の跡。空爆から飛行機を守るコンクリート造りの施設で、あちこちに10基近くの跡が残されている。代表的なものが市指定史跡となっている城井1号掩体壕。高さ5.4メートル、幅約22メートル、奥行き14.5メートルで、「零戦」を納めた比較的小さなもの。ほかには幅が40メートルを超える大型もある。
 城井1号は保存整備事業によって発掘調査され、周辺も公園のようになって記念碑も建つ。近くの滑走路跡には、かつて特攻を見送った兵士たちの代わりに石柱が並んでいる。
 遺構はこのほか、弾痕のある隊中枢部の建物や防空壕、空爆による「爆弾池」などがある。

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