写真/宮地泰彦
湯平温泉といえば石畳。緩やかな坂はおよそ500メートルにわたる。両側にはびっしりと湯宿や土産品店。金の湯、銀の湯、中の湯など五つの共同浴場も。花合野川の瀬音とともに、カランコロンと湯治客のげたの音が伝わってくる。雨もよく似合う。
温泉街のすぐ上には棚田が広がり、緑濃い里山へと続く。菊池幽芳はこれを「山峡はきりたちこめて水の音いよいよ高し雨の湯平」と歌った。野口雨情は「わたしゃ湯平 湯治の帰り肌にほんのり湯の香り」と軽く口ずさんだ。種田山頭火は温かい湯と人情に触れた。「時雨るるや人のなさけに涙ぐむ」。ミュージアム「時雨館」がある。
温泉の歴史は古い。伝説によれば、鎌倉時代に猿が湯に入っていたのをきっかけに見つけたとされ、室町時代には湯治場として開かれたらしい。近代に入ってからは別府に次いで九州第二の温泉地としてにぎわった。
ただ、江戸時代にはいささか荒れていた時期もあったらしい。それを復活させ、湯治場を全盛に導いたのがほかならぬ石畳の坂。大竜井路などを開削して利水の恩人として知られる工藤三助がかかわり、約300年前の享保年間に石を敷き詰めたという。以来、街並みが息を吹き返して人々を再び呼び込んだ。
JR久大線は当初、大分―湯平を結ぶ「大湯線」としてスタートした。これも湯平温泉の魅力がいかに人を引き寄せたかを物語っている。由布院温泉と合併した際も「湯」は湯布院町(現・由布市)として残された。
泉質は弱食塩泉。「浴びてよし飲んでよし」で、胃腸への効能が特に優れているといい、お茶代わりにお湯を出す宿もある。
現在、昔ながらの雰囲気を残しながらも現代化を図り、全盛期を呼び戻そうと、活発な動きが見られる。「石畳浪漫」に始まり、若者たちの足取りは確かだ。