泉都観光の象徴
「大分の速見の湯」は古くから知られていた。文献として最も古いものは、8世紀の初めに編集されて朝廷に提出された『豊後国風土記』であろう。
その速見郡の項には、竈門山に「赤湯泉」、河直山の東に「玖倍理湯井」があると記されている。前者は湯の色が赤く、その泥で柱を塗るに足りるとあり、後者は黒く、人が近づいて大声を上げると怒って噴出し、熱で近くの草木は枯れているとあるから、間欠泉と思われる。
共に鉄輪・亀川の温泉地帯であり、はっきりとはしないが、所在地の記述から血の池地獄、鬼山地獄ではないかという。
立ち上る噴気、湧き出す熱湯や熱泥の地帯を地獄と形容したのも古くからである。仏教の宇宙観で説く地獄は地の下。そこに金輪奈落(地獄)があると考える。金輪際という言葉があるように、そこは世界の果て。 その金輪、あるいは河直が鉄輪の文字の元になったのか。一遍上人が焦熱の地獄を鎮めて温泉として開発した際、鉄の輪を投じて祈念したとも伝える。
亀川は848(承和15)年、冷川で白い亀が捕獲され、献上された朝廷が元号を嘉祥に改めたと『続日本後紀』にあり、それに由来するとか。白亀塚のある公園が街の中にある。
両温泉は別府八湯のうち、地獄の大部分を持つ。前記のほか海、坊主、白池、龍巻などなど、まさに地獄群。「地獄めぐり」の観光バスの発祥地であり、今日でも観光別府の目玉として、マグマの力、温泉のエネルギーを訪れる人に実感させる。
それとともに、古くからの湯治場情緒が至る所に生かされ、さらに温熱医療、福祉、農業にも利用される。温泉の中に暮らしが息づく所であり、人情も厚い。地獄で仏と言われるが、訪れる者が「地元の人たちがみんな仏に見える」とも語ってくれた。