輪中は独特の水防対策を工夫した。家屋敷は石垣を積んで高くした土地に構える。1階は壁を設けず開放的で、鉄砲水への抵抗を軽減させて家の流失を防ぎ、2階への階段は幅を広く取って避難の便を図る。土蔵は母屋より一段高く築いた石垣を基盤とし、非常食や生活必需品を納め、小舟まで用意した。さらに周辺には生け垣のほか、大木を植えて水流を制御し、時にはそれに登って水を避けた。
江戸初期の領主・加藤清正の溢流堤に始まり、輪中は次第に強固になったものの、水害は昭和初期までに60 回を数えたという。1929(昭和4)年に行政は計画高水量を毎秒5000立方メー トルとしたが、1943年と45年には 8000立方メートルを超す洪水に見舞われる。これによって堤防の強化や分流堰の建設が進み、現在では危険はかなり去った。
だが、それによって川に対する住民の意識も次第に変化し、宅地化で新しい人 も増えた。今では2000世帯以上。かつては川と共生し、住民は水防共同体を構成して連帯意識を重視してきたが、それが次第に薄れているともささやかれる。 輪中文化も変ぼうしているのか。