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大分城址公園

写真/竹内康訓

にぎわう春の宴

 城跡には桜がよく似合う。日本人の「お城」に寄せる感慨と桜への思い入れが合致するせいか。おかげで春の城跡は「高楼の宴」ならずとも、どこでもお花見が盛ん。大分城址公園(府内城跡)は街中だけに特ににぎわう。

 豊後から大友氏が去った後、1597(慶長2)年、府内に入ったのは福原直高。新しい城の建設地を当時の大分川河口付近で、船荷を陸揚げしていた荷落と呼ばれる場所に定め、2年後に基礎が完成、「落」の字を嫌って荷揚城と名付けた。

 だが直高はすぐに減封のうえ臼杵に移され、早川長敏、次いで竹中重利が入る。竹中氏は城の大改修を行い、4層の天守閣はじめ各種の櫓や山里曲輪、内堀などを造り上げて府内城と改称したほか、城下町の整備にかかり、これで今日の大分市中心街の区割りがほぼできた。1607(慶長12)年のこと。

 以後、日根野吉明を経て松平氏が入り、近代を迎える。その間、火災や地震で天守閣を含む多くの建物を失い、結局、天守は再建できないまま。さらに明治の城破却から県庁が置かれ、先の戦争で櫓などを焼失する。

 現在残るのは宗門櫓、人質三番手櫓と三方の塀。大手門は復元され、県庁の移転後に大分文化会館 (平成25年閉館) ができ、山里曲輪との間に廊下橋も造られ、公園として整備された。県史跡。「日本100名城」の一つでもある。

 府内藩は二、三万石の小藩だが、城の規模が大きいのは福原氏が十二万石の格式で着手したから。美しさで白雉城とも呼ぶ。しかし、雉は石垣の面積の単位で、 1雉は長さ3丈、高さ1丈(1丈は約3メートル)で、大きさから百雉城とも言ったらしいが、中国の古典「春秋」に「城が百雉を過ぎるは国の害」とあり、徳川家の武家諸法度でも同じ規制を受け、百の字から一画を引いて99の意味の「白」にしたのか。

「日本100名城」の一つ。現在残るのは宗門櫓、人質三番手櫓と三方の塀。大手門は復元され、公園として整備された。