写真/竹内康訓
杵築城下は坂の町である。天守閣=1970(昭和45)年再建=の立つ城山はじめ、武家屋敷の並んでいた北台、南台はすべて坂の上である。元禄年間(1688年〜1704年)に豊後を旅した福岡藩の儒者・貝原益軒は『豊国紀行』のなかで「木付の町は山と谷とに有りて坂多し」と書いている。谷にあるのはその名も谷町筋という町人町だった。
城山を下って北台に登るのが勘定場の坂。北台へはほかに北からは番所の坂、射場の坂、南の谷町筋からは酢屋の坂、紺屋町の坂、富坂など。一方、谷町から南台へは志保屋の坂、飴屋の坂、天神坂など。谷町をはさんで、北と南の台地は坂によって有機的に結ばれている。
ところで、益軒が記しているように、杵築はかつて木付と書かれていた。国東半島と内陸部をつなぐ海陸交通の要地をおさえていたのは古くから木付氏だった。近世になって藩が成立したのち、松平氏の時代に幕府の朱印状に杵築と誤って書かれたのである。藩では「間違っています」とは逆らえず、地名の方を変えた。益軒が訪れた時からおよそ20年後だった。
城郭のあった城山はかつて三方を海に囲まれていた。南の八坂川の岸に御船手長屋の跡、北西のふもとに藩主御殿の跡がある。北台の武家屋敷街には重臣だった大原氏の邸宅などが土塀を連ね、小学校には昔の藩校・学習館の門が残っている。
南台は道が升目に整然と通され、家老丁や松・竹・梅の小路など古くからの町名が残り、新しく城下町資料館も建てられている。その西にある寺町には寺院が立ち並び、かつて城下の防備に利用されていた。
サンドイッチされた谷間は谷町、仲町、新町、弓町。近年、道は広くされたが、新装の商店も城下に似合う姿に復元されて人々を迎える。杵築城下は心温まるタイムスリップの町だ。