写真/石松健男
和傘の柄を取って伏せたような丸い半島。中央の両子山(721メートル)から四方に向かって放射状に延びる尾根と谷。国東半島は火山によってできた地形を見せてくれる日本でも典型的な半島だ。
半島が成立した後、東西に黒津崎―両子山―真玉を結ぶ線から北が沈降し南が隆起した。このため北にはリアス式の海岸線が生まれ、南には東の奈多、あるいは西の真玉・呉崎海岸のような遠浅の浜ができた。
さらに、半島を頭になぞらえれば、その首根っこにあたるところに地塁と呼ばれる華ケ岳、田原山、さらに杵築山地が連なり、マフラーを巻いたような格好である。
放射状に延びる谷は古くから「二十八谷」と呼ばれた。人々はここに住み着き、田畑を開き、村を営んだ。それが次第にまとまり、古代には六つの郷が成立した。「六郷」は半島の代名詞のようなものになった。
やがて宇佐神宮が進出し、神領地としての荘園を経営する。海岸線の各地に奈多、桜、別宮、若宮など幾つもの八幡社を設け、神仏習合の後、山々に「六郷満山」と称するおびただしい寺院や聖地をつくった。半島は「神と仏の里」となった。
二十八谷は半島の河川数とは一致しない。その数は法華経の品数、つまり巻数である。満山寺院は本山、中山、末山の三山組織を持ち、その本寺の数もまた28ヵ寺。それは半島文化の聖数にほかならない。
山と谷には、いたるところに耶馬渓式の岩景が見られる。夷耶馬、文殊耶馬、並石ダムに影を落とす鬼城の岩峰、三の宮の景、千灯岳の不動岩などなど枚挙にいとまはない。地塁には鋸の歯のような岩峰を連ねる鋸山こと田原山も立つ。そこに六郷満山の寺と社が立地し、岩屋や石仏、石塔が散らばり、今日も香煙は絶えない。八幡と法華経による伝統行事や民間信仰の数々。半島はまさに神仏習合の生きた歴史の宝庫である。