写真/宮地泰彦
鶴見岳連嶺のふもとから別府湾の波打ち際まで、別府市街地は緩やかな傾斜を見せて広がる。緑の山と青い海の間で、街は色とりどりのモザイク模様。泉都は自然と街と人が温かい風景を繰り広げ、そのアクセントとなるのが別府タワーである。
高さ90メートル。観光別府のシンボルとしてタワー建設が計画されたのは1956(昭和31)年、別府温泉観光産業大博覧会の前の年、博覧会の目玉施設として構想された。別府観光開発株式会社が設立されたものの、資金繰りの関係で完成は博覧会の閉幕直前の1957年5月10日だった。
設計したのは東京タワーと同じく内藤多仲氏。名古屋テレビ塔、大阪・通天閣に続いて日本で3番目の高層タワー。その後のさっぽろテレビ塔、東京タワー、博多ポートタワーとともに「タワー六兄弟」とされている。
完成時の従業員募集にはおよそ4000人が応募。前にあった当時の北小学校を3、4周するほどの列ができて受け付けを待ったとか。60年代から70年代前半がタワーを含めて別府観光の全盛期。年間100万人がタワーに上った。周辺の木造旅館がホテルとなったのも同じころ。 だが、国道10号の拡幅で敷地の一部が削られるなどもあって低迷期に入り、80年代には解体も検討されるほどの危機を迎えた。それも大鵬レジャーグループの経営バトンタッチで免れた。2007(平成19)年には50周年を迎え、国の登録有形文化財ともなった。
街と海の境でまっすぐ空に伸びる姿はもちろん、地上55メートルの展望室からの眺めは素晴らしい。だが、思い出は観光客だけのものではない。幼い時からタワーを仰いで暮らしてきた市民が大半を占める今、それは人々の心のよりどころでもある。将来も、タワーは「別府っ子」とともにあり続けるだろう。