写真/宮地泰彦
七島はトカラ列島からの渡来を意味する。イは藺、つまりイグサのこと。古く豊後に持ち込まれ、畳や莚に加工され、豊後表、青表として近世から近代にかけて全国に知られた。成長は早く、初夏に植え付け、盛夏に刈り入れする。
イグサは元来、日本各地に自生、それを使って敷物などを作った。その需要増から栽培されるようになり、備後表などが出回った。行灯の灯心にも利用したので灯心草とも呼ばれた。
それに対し、豊後表はイそのものが強く、耐久性や吸湿性に優れていたので一般庶民に愛用され、国東半島東岸や府内の特産品として全国市場を独占するほどの需要があった。江戸期、日田出身の農学者・大蔵永常は『広益国産考』に「畿内関東にては、この莚を豊後の青莚とも表とも言う」と記している。
豊後に七島イが入ったのには二つのルートがあった。いずれも17世紀のこと。一つは日出藩の鶴成金山(杵築市山香町)に来ていた薩摩の人たちが使っていた筵を見て金山奉行が導入を藩主に献策、薩摩に派遣された者が苗と技術を持ち帰り、後に杵築藩にも広がった。もう一つは府内の商人が琉球に渡るとき難破、漂流してトカラに着き、そこで見つけたイを竹筒に入れて府内に伝えたとされる。
豊後表は杵築、日出、府内各藩の専売品として厳しい統制の下に置かれたが、品質管理も行き届き、江戸を中心に流通するようになって全国を風靡した。各藩の港は送り出される表で大にぎわいしたという。大分市の三芳と杵築市の城跡には青表に関係する神社もある。
近代から現代へ、豊後表は盛衰、紆余曲折をたどりながらも現代に至っている。戦後も一時期は全国生産量の8割を占めたという。近年は、住宅建築様式の変化で衰退した七島イの再興を目指して、新たな工芸品づくりが進められている。