写真/竹内康訓
別府湾の北岸、日出町豊岡の背後に断層崖の山々が連なる。標高623メートルの主峰・七つ石山を中央に、西に経塚山、東に城山や百合野山などが並ぶ。これを鹿鳴越連山と呼ぶ。百合野山と城山の間に東鹿鳴越、七つ石山と経塚山の間に西鹿鳴越という二つの峠があるからだ。
これがかつての豊前街道。国道10号・赤松峠の開通まで、豊後の中心部から県北、豊前へと通ずる幹線道路だった。
峠路はおびただしい数の旅人を往来させた。北から来た人は、峠の頂で初めて別府湾を見下ろし、南から登る人は、海辺とお別れ。それは哀歓の峠だった。だが何よりも、峠は文化の出入りと産物の流通に大きな役割を果たしてくれた。
その新しい文化の流入の一つが、フランシスコ・ザビエルの豊後入りだ。彼は山口に滞在中、大友義鎮(宗麟)の招待状を得て府内を目指す。有力大名のもとでの布教を願った彼にとって、義鎮はまさに魅力ある人物だったと言える。
1551(天文20)年8月、ザビエルは西の峠から日出に下り、船で府内・沖の浜に上陸して大友館を訪れる。義鎮は初めてデウスの教えに耳を傾け、キリスト教の布教を許可する。ザビエルの豊後滞在は2ヵ月足らずだが、これをきっかけにイエズス会の戦闘的とも言える宣教活動が始まる。教えとともに、西洋医学が入り、豊後人は西洋の音楽や劇も見聞きした。南蛮船も往来した。
その後の禁制。鹿鳴越の麓でも殉教者が出た。日出藩の家老・加賀山半左衛門と息子ディエゴ。1619(元和5)年のこと。いまローマ法王庁により福者に列する。そして日出町では西鹿鳴越や殉教地を含め「ザビエルの道」を定め、ウオーキング大会などを開いている。