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キリシタン洞窟礼拝堂

写真/宮地泰彦

隠れ信仰支える

 四囲に岩の壁を巡らす竹田の市街地には、久戸谷など谷間に入る小路の谷地名がある。その一つ、武家屋敷の面影が残る殿町の「歴史の道」から広瀬神社の崖下へとちょっと入った赤松谷に、県指定史跡のキリシタン洞窟礼拝堂がある。
 凝灰岩の崖をうがったドーム型の洞窟は広さ約10平方メートル、天井の最も高いところで3.5メートルくらい。奥正面の壁に祭壇がしつらえられ、赤土色の漆喰が塗られている。かつては丸太を組んで床板を張っていたらしい。
 すぐ横には水の出る「住居跡」とも言われる岩陰の窟があり、さらに近くには幾つかの窟らしきものがひっそりと残されているという。造られたのは近世の初期らしく、隠れキリシタンの遺跡だとみられている。
 当時、直入地方にはキリシタンが多く、宣教師もいた。そこに秀吉による禁制が出され、徳川幕府もそれを引き継いだ。ルオン・パジェスの『日本切支丹宗門史』1617年条には、神父のナパロとブルドリノが洞窟に隠れ、シンガの殿の一人が匿っていたとの記録がある。
 シンガの殿とは、この地域の前の領主であり、自らも入信していた志賀氏の一族らしいし、同地方がまだ志賀の地名を伝えていたかもしれない。また中川藩の家老はキリシタンの織部灯籠を残した古田氏の末裔。神父が隠れ住んだのを黙認したばかりか、礼拝堂の造りなどから見ても、かなり肩入れしていたのではないかとも推測できる。
 さらに中川氏の家紋は「中川クルス」とも呼ばれる十字架形なのだ。幕府の禁令に従って中川藩もそれなりの取り締まりをしてはいるが、礼拝堂や神父らの存在を見て見ぬふりをしていたとも思える。 ともあれ、全国的にもあまり例のない洞窟礼拝堂の鑿の跡だけが、それを知っているのだろう。

幕府のキリシタン禁制下で教徒の信仰のよりどころとなった礼拝堂。岩陰にひっそりと残る洞窟には2人の神父が隠れ住んでいたとされる。