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宇佐海軍航空隊の戦跡遺構

写真/宮地泰彦

苦しみの体験語る

 大分県内には「戦争遺跡」が各地にあり、かつての激しい戦火と、人々の苦しみの体験を目の当たりに語ってくれるが、朽ちるに任せられている遺構も多い。その中で、遺跡を文化財に指定し、後世に伝えようとする試みも増えてきた。宇佐市の施策が良い例である。
 宇佐平野の美田を飛行場として造成、宇佐海軍航空隊が開隊したのは1939(昭和14)年。当初は艦上攻撃機・爆撃機の搭乗員を実戦部隊に配備するための訓練が主体だったが、2年後の太平洋戦争の勃発とともに次第に作戦部隊に組み込まれ、ついには特別攻撃隊、いわゆる「特攻」の基地となった。多くの若者が飛び立ち、命を絶った。 このため、1945(昭和20)年の春から米軍機による激しい空襲が相次ぎ、航空隊施設だけでなく周辺の町や村も廃虚となり、兵士のほかにもたくさんの住民が亡くなった。
 戦後、飛行場を含む航空隊跡地は破壊処理とその後の大規模圃場整備によってほとんど消滅したものの、市当局や学者たちによる地図上での復元作業が進んでいるほか、わずかに残された遺構の保存が図られている。
 その一つが掩体壕の跡。空爆から飛行機を守るコンクリート造りの施設で、あちこちに10基近くの跡が残されている。代表的なものが市指定史跡となっている城井1号掩体壕。高さ5.4メートル、幅約22メートル、奥行き14.5メートルで、「零戦」を納めた比較的小さなもの。ほかには幅が40メートルを超える大型もある。
 城井1号は保存整備事業によって発掘調査され、周辺も公園のようになって記念碑も建つ。近くの滑走路跡には、かつて特攻を見送った兵士たちの代わりに石柱が並んでいる。
 遺構はこのほか、弾痕のある隊中枢部の建物や防空壕、空爆による「爆弾池」などがある。

近くにある石柱が並ぶ滑走路跡。