写真/石松健男
周防灘に面する県北の中津市から宇佐市、豊後高田市にかけての海岸線は遠浅の砂浜で、県南・豊後水道のリアス式海岸とはまったく対照的。その遠浅海岸の代表的なものの一つが和間海岸で、広い干潟が見られる。
和間海岸は宇佐市の東部で海に入る寄藻川河口の西、長洲町の東に当たり、昔から「和間ノ浜」として知られる。『宗像神社古縁起』には神功皇后が朝鮮出兵の際、宇佐の「和摩浜」で48隻の船を造ったと記されているそうだし、『八幡本紀』には和間の浜は宇佐郡松崎の海辺で、放生会を執行するとある。
神功といい放生会といい、古くから宇佐神宮と関係の深い海岸である。その伝統の放生会は10月に浮殿橋の横にある和間神社で行われ、大昔に宇佐神宮が鎮圧した隼人の霊を慰める行事とされている。
海岸線には防風のための松林が連なり、日本的な海岸風景である「白砂青松」そのもの。現在では和間海浜公園が整備されて、干潟での潮干狩りなどが楽しめる。海辺で遊べば、松の緑が心地よい憩いの木陰を提供してくれるだろう。
ところで、海岸の背後は豊かな田園地帯。ここに久兵衛新田、岩保新田、あるいはさらに奥に北と南の鶴田新田などの地名が見られる。ほかにも近くには駅館川の西に神子山、郡中、高砂、順風、乙女、あるいは浜高家などの新田の付く地名が並んでいる。
これらは近世後期に遠浅海岸を堤防で締め切って干拓地を造成し、新しく開発した新田地帯である。開発の音頭を取ったのは西国筋郡代(日田代官)の塩谷大四郎で、宇佐郡や農民、または町人が請け負って開いたもの。久兵衛は広瀬淡窓の弟で、いわゆる日田金を動かした町人である。
つまり、和間の海岸は農民たちの粒々辛苦の新田造成の後、さらに海に延びた砂浜なのである。