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豊後鶴崎 空桑思索の道

写真/宮地泰彦

文武両道を説く

 鶴崎は江戸時代に肥後・熊本藩が瀬戸内海への玄関として豊後に設けた港町である。1601(慶長6)年、肥後に入った加藤清正は、豊後国のうち久住、野津原、鶴崎、佐賀関などに飛び領を得て、これを結ぶ豊後街道(肥後街道)を開いた。参勤交代はじめ、文化や経済などで上方との交流を狙ったものだ。

 その後は細川氏によって引き継がれ、 肥後五十四万石の港として内海航路の要衝となり大いににぎわった。古松軒の『西遊雑記』にも「鶴崎といえる所ははなはだ良き町」とある。西下して府内の港に入ろうとした船が「府内じゃ小さい小さい」と鶴崎に回航したという話も伝わる。

 参勤交代の際、肥後藩主の本陣となった御茶屋は今の大分鶴崎高校、鶴崎小学校の辺りに置かれ、大野川の左岸・河口部から船が出て、一帯はまさに城下町の観を呈したという。

 御茶屋の南に隣接して、熱心な日蓮宗信者だった清正が建立した雲鶴山法心寺。「二十三夜祭」で知られる。東に進むと大通りを越えて剱八幡宮。参勤交代船 団の豪勢な入港の様子を描いた絵馬や「けんか祭」が有名。その間に、毛利空桑の塾・知来館と居宅・天勝堂(ともに県指定史跡)が残り、資料館がある。これが「空桑思索の道」と呼ばれる由縁である。

 空桑は江戸末期から明治初期にかけて活躍した儒学者。1797(寛政9)年に近くの高田郷常行に生まれ、地元の脇蘭室や日出の帆足万里の門をたたき、熊本や福岡にも学んで帰郷し塾を開いた。門弟は千人を超えた。「文ありて武なきは真の文人にあらず」「武ありて文なきは真の武人にあらず」が信条。剛毅、不屈、礼節の人であるとともに、その尊王思想は維新にも大きな影響を与え、吉田松陰らも来訪した。1884(明治17)年、88歳で没する。

江戸末期から明治初期にかけ活躍した儒学者・毛利空桑の塾である知来館と、居宅の天勝堂が残り、「空桑思索の道」と呼ばれる大分鶴崎高校の辺り。