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福沢諭吉旧居

写真/宮地泰彦

18年間学びの場

 福沢諭吉は1835年1月(天保5年12月)、中津藩の大阪蔵屋敷で生まれた。父の百助が藩の回米方だったからだが、すぐに亡くなり、母子6人は中津に帰ってくる。諭吉は末っ子であり、まだ1歳6カ月だった。住んだのは、留守居町のもともとの屋敷。現在の旧居の前で、通称旧宅跡と呼ばれるところ。

 その後、母の実家だった今の旧居に移る。母屋は木造かやぶきの平屋で5間、北側に瓦ぶき2階の土蔵があり、この2階の狭い部屋が諭吉の勉強の場だった。

 父・百助は儒学者だった。諭吉の名前は、彼の生まれた当日に「上諭条例」(清・乾隆帝治下の法令記録)を入手できたのを喜んだからと言われる。

 しかし、武士としては下級で、身分格差の厳しい藩内では名を挙げられない。後年、諭吉が「門閥制度は親の敵で御座る」(福翁自伝)と書いたのも、封建制を打ち破るのに力を入れたのも、この辺りに由来するのか。

 諭吉は長崎に遊学するまでの18年間をここで過ごし、父の師でもあった白石照山や多くの人に学び、さらに大阪の緒方洪庵の適塾を経て江戸に行き、生涯の多くを東京で過ごした。

 1870(明治3)年、「中津留別の書」を残して母を伴い一家は中津を離れ、家は親戚に売却され、さらに旧藩主・奥平家を経て明治末に当時の中津町に寄付されて現在に至っている。国の史跡に指定され、隣接して資料館も建てられている。
 「留別の書」を記してはいるが、諭吉には思い出深い家だった。江戸・東京で過ごしながらも、売り払うまでにたびたび帰省しているし、1894(明治)年には学びの場だった土蔵の壁土を記念に持ち帰ったという。

 ベストセラー『学問のすゝめ』初編もまた、中津市学校の開校に際して「同郷の友人へ」の趣旨で書かれたものだった。

福沢諭吉が長崎に遊学するまでの 18年間を過ごした旧居。現在は国 の史跡に指定されている。