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宇佐風土記の丘にある古墳群

写真/竹内康訓

クニの首長眠る

 宇佐市の真ん中を流れる駅館川の右岸台地に「宇佐風土記の丘」がある。ここが風土記の丘になり、県立歴史博物館が置かれたのは、一帯に多くの古墳があるからだ。地名を取って川部・高森古墳群と呼ばれ、6基の前方後円墳を中心に、円墳や周溝墓など100を超す古墳・墓地が集積し、国の史跡となっている。九州では宮崎県の西都原古墳群に続く規模である。
 前方後円墳で最大のものは福勝寺古墳(全長82メートル)で、次いで車坂、赤塚、免ケ平、角房、鶴見などの古墳がある。この中で最も注目されるのが赤塚古墳。全長57・5メートル、高さ約5メートルで、大きさはさほどではないが、築造は3世紀末と考えられ、九州で最も古い時期のものだ。
 1921(大正10)年の秋、2人の村人が夜陰に乗じてひそかに発掘、後円部にある箱式石棺の中に五面の青銅鏡を発見した。情報はすぐに考古学者の耳に入り、現地調査の結果、鏡はいずれも中国製とみられる優秀なもので、ほかに管玉、鉄刀、鉄斧や土器片を伴っていることが分かった。
 梅原末治氏(元京都大学教授)による調査報告が学会誌に掲載され、一躍して赤塚の名が知れ渡った。特に目を引いたのが、鏡のうち四面の三角縁神獣鏡が大和など各地で出土した鏡と同じ鋳型で作られたものだったことや、墳形から極めて初期の前方後円墳と判明したこと。
 つまり、それは初期のヤマト政権が畿内から瀬戸内海各地の首長と同盟関係を結びながら、統一王権を目指してついに九州に足がかりを得た証拠と考えられたのである。
 宇佐平野は海陸の要衝であり、九州の玄関だった。弥生時代以降、宇佐地方に勢力を張った有力集団・クニの首長たちは、赤塚に次いで免ケ平古墳に眠り、6世紀の鶴見古墳まで、代々の古墳群を形成していったのか。

3世紀末に築造されたと考えられている赤塚古墳。