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岡城跡

写真/石松健男

難攻不落 花の宴

 「春高楼の花の宴」。「日本のさくら名所100選」に選ばれた岡城跡の花はまさに満開。それに誘われて駐車場から大手門へとたどると、高く幅広い石垣が迎えてくれる。重力を分散させる仕組みの見事な石組み。加藤清正に指南を受けたともいう。眼下には大野川本流と稲葉川が天然の堀となり、難攻不落の名に恥じない。
 18世紀の終わりに近く、岡城下に入った古河古松軒は「かねて聞きおよびしより嶮城にして、目を驚かせしなり。海内三嶮城の最上とも称せるもむべなり」と書いた。幕府の隠密ではないかとの説もある彼の目は確かだ。
 岡城は古代、源平の合戦に勇名をはせた豊後武士団の緒方惟栄が、頼朝と不仲になった源義経を迎えるために築いたのが始まりとの伝えもある。 中世には志賀氏が入った。薩摩軍の豊後侵攻の際は、弱冠18歳の城主、親次が手勢1000人で守り抜き、3万余といわれる相手に多大の損害を与え、名城の名を高めた。
 もっとも、現在に残る城構えは近世、中川氏が播州三木から転封され、3年かけて整備、拡張したもの。それまで挟田にあった城下を今の市街地に移し、大手門も西向きに築き直された。平山城で姿から臥牛城、あるいは地名から豊後竹田城とも呼ばれた。天守の三重櫓があった本丸、数寄屋などで花見の宴などが催された二の丸、さらに政務をとる三の丸や西の丸。それらが馬てい形に複合して組み合わされ、防御の機能をいっそう固めた。
 それらの建物は今はないものの、本丸跡からの展望は抜群。くじゅう連山を北に、南に祖母・傾の山並み、西に遠く阿蘇山。滝廉太郎の像もある。『荒城の月』はさらに「千代の松が枝」と続く。この松に吹く風「岡城跡の松籟」もまた、「日本の音風景100選」の一つである。

滝廉太郎像もまた、花を、松に吹く風の音を楽しんでいる。