• 県西
  • 景観

硫黄山

写真/竹内康訓

連綿と噴気立つ

 くじゅう山群が火山として成立し、今なお強烈な火のエネルギーを蓄えていることの証しが硫黄山の壮大な噴気である。その力を現代人に見せつけてくれたのが、1995(平成7)年10月の爆発。記録に残るところでは、257年ぶりの「噴火」とも言える大きな活動だった。
 硫黄山は星生山の東面の尾根筋にあり、1580メートルのピークを中心とする累々とした岩の集積。現在では活動も落ち着いてきたが、いつも硫黄分の強い噴気を上げ、荒涼とした光景を広げている。飯田高原からよく見え、高原の人たちは噴気のなびき方で天気の動きを察する。
 江戸時代に記された『豊後国志』は「硫黄を多く産出し、常に火がある」と書く。当時、山群は飯田側の天領と久住側の岡領、肥後領に分けられ、硫黄山辺りで境を接した。硫黄は貴重な産物である。三者はそれぞれの取り分を決めて採取していたが、時には侵犯などのトラブルもあったようだ。三者の領内にはいずれも修験の寺院があり、山伏たちが入山していた。彼らは、境界を監視するという役割をも果たしていたと思える。
 硫黄がいつごろから採取されたかは定かでない。大友宗麟の南蛮貿易に使われたとも言われるが、本格的な採取は江戸期から。初期の採取法は「掘り硫黄」で、岩石の間から掘り起こして取る単純なものだった。やがて「練り硫黄」の手法が生まれる。硫気の噴き出す岩間の周囲に石を積み、ムシロで覆って付着させ、定期的に取り出した。
 明治以降、民間が採掘に乗り出し、昇華硫黄を煙道に通して凝結させる「誘導法」で生産を急増させた。大正から昭和にかけてが黄金時代で、運搬のための道路が飯田高原を通った。これが九州横断道路の基礎となった。今、本格的な採掘は終わったが、噴気は変わらない。

硫黄は江戸時代には本格的に採取され、南蛮貿易に使われたともいわれる。